ブログ コンセプト

シンガー・ソングライター作詞入門講座

【はじめに】 「シンガー・ソングライター」というジャンルの人たちが注目され始めたのは、おそらく1970年前後のフォークブームの中から沸き起こった現象だった。

その当時はまだ歌謡界という業界の権威が壁としてあり、それに反発するような感覚で登場したのがフォーク歌手と言われる若者たちだった。

60年代半ばに、アメリカから輸入されたフォークソングがカレッジフォークとして日本でも流行った。それが60年代後半には、特に政治的な意味合いも加わり「反戦」や「学生運動」(全共闘運動)などの世の中に物申すという動きにも影響を受けて、その状況を傍らに意識しながらの音楽活動が一番の特徴的な時代となりました。

ところが、70年の安保条約自動延長とともに、学生運動は一気に収束してしまったこととの関係が大きかったのか、フォーク界の音楽状況も一変します。

体制批判の意識は政治への不信感として表現の裏側へ隠れてしまいます。そしてそれよりも内省的な内容が主流となり、一時は生活派フォークとして評価される一方で4畳半フォークなどと揶揄されることもありましたが、音楽的には高まりが多くみられたのです。

このころ、吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫、小田和正等々のビックなシンガー・ソングライターが登場したのも70年代初めからです。

60年代からのこの時代は、同時にビートルズをはじめとする多くのロックバンドやボブ・ディランなどの海外ビックの黎明期であり、その風をまともにかぶって影響を受けた団塊世代(その最も中核は昭和22年生まれです)の頑張りが実を結んだ面も否めません。

この時期のことを語りだすととりとめもなくなって出口を見つけられなくなるので、それはまた別の機会に譲り、次に行きます。

【今の時代にも】

今も、昔と変わらずにシンガー・ソングライターを目指して日々頑張っている人たちは多いことは間違いないですが、すべての人がそれで食えるようになるわけではありません。それはまた、今も昔も共通しています。

根底的に私が素人目に思う外観とは、若いソングライターの人たちの間には連帯感が乏しいように見えます。だから音楽性が高まらないのでしょうか。仲間同士の違う才能のぶつかりから、スゴイ音楽(楽曲)が生まれることはソングライターとアレンジャーのぶつかりとしてまず体現されます。

例えば、泉谷しげる氏のアルバム「80のバラッド」のアレンジは故加藤和彦氏で、二人のその異質過ぎる才能のぶつかりからロックバラードというジャンルが確立された感があります。

また、西岡恭蔵氏(故人)の「モロッコ」という曲(アルバム「ヨーソロ」)のアレンジは細野晴臣氏ですが、この曲のアレンジも他に追随を許さないハイレベルな完成度です。

しかし、それらのことを一端は横に置いておくとしても、若い人たちの音楽に音楽的な要素として、いったい何が変わったのだろうか?と思う時に、音楽の専門家でもない、私のようなものにでも見える変化についてあげてみましょう。

例えば今、次々に登場してくる歌にはない、或いはとても少ないものがあります。それは

●ハーモニーがない。
●ランラン、ラーラー、ウオーウォーなどの言葉ではない声の部分がとても少ない。
●バックコーラスがない。
●イントロ部分が短くなり、印象的な出だしや音楽的に凝った部分が少ない。
●アレンジでの楽器の使い方に工夫が少ない。(例えば、管楽器やピアノを効果的に使ったり、時にはハモンドオルガンやシタールなどを使ったりの、冒険が足りないなど)
●アレンジでの調性の喪失。(例えば、ジャズ調とかレゲエ調とか、ブルース調とかのアレンジがないなど)

とても表面的ですが、このような点に気づきます。
もちろん、これらの傾向には当てはまらない優れた楽曲もたくさんあるかもしれませんがなかなかお目にかかれません。

でもどうしてバックコーラスやハーモニーが消滅しつつあるのでしょうか。それらは音楽的にかなり重要な部分に思えるのですが。なぜならそれは歌に重層的な深みや奥行きを与えるものだからです。

70年代以降、音楽機材は飛躍的に進化したはずなのに、音楽的にはむしろ後退しているように思えるのは残念なことです。

【世代間の音楽や個人間の音楽に優劣をつけることは、果たしていいことか】

私には、このような迷いが長くありました。正しく言えば、思いの底には実は優劣差を感じつつも、それを口にして表現するのはNGかという思いです。

ところが、ある時にテレビで「プレパト」という番組が始まり、絵画や俳句などの芸術部門でタレントの作品を「才能あり」「凡人」「才能なし」の3種類に明確に分けて評価するということが成されるようになりました。

私は、これを見た時に「これだ」と気づきました。特に俳句などでは作った本人はとても自身があるのに、「才能ナシ」の低評価であるということもしばしばです。その評価にはそれなりに夏井先生の明確な根拠となる説明があります。

そうなのです。そこには明らかに優劣があり、それと同じように歌(楽曲)にも明確な優劣を付けていいのだということに気づかされたのです。

新曲で若者に支持されているからいい歌であるとか、ヒットしているからいい歌であると無批判的に評価するのではなく、「いいか、よくないか」には明確な基準を基にした正しい判断がくだされなければならないのです。

私たちが一番陥りやすい誤解は、「好き」=「いい曲」という錯覚です。これさえも基準に沿って今一度考え直すことをおススメしたいのです。

このブログの究極の目的は、今からシンガー・ソングライターになりたいと思う人にいい歌を作ってもらうための講座として役立てて欲しいという所にあります。しかもタダで。

■「基準」について

そのための基準(物差し)の明確化について、以下に語っていきたいと思うのです。

例えば、
●この曲、他にも似た感じのものを聞いたことがある
●こんな「言葉」よく使われている
●こんな「境地」や「感性」の歌は以前から五万とある
というようなものは、オリジナル性に乏しいという意味で低く評価したい。
その反対に
●明確なメロディのメロディラインの秀逸さ。
●こんなアレンジは初めて聞いた。この楽器の音っていったい何?的な独自性が感じられる。
●この歌は聞くだけでドラマ的な映像が目に浮かぶ、とか、この歌詞のシュールさの醸し出す世界観の斬新さが驚きに値する。優れたメッセージ性が感じられる。
などのような、好材料には高い評価を与えたい。

そのような基準で、以下のようなごく簡単な例を挙げてみました。

・「奇跡」

例えば、言葉で言えば「奇跡」という言葉が多用されています。この言葉には耳触りの良さ以外には表現と言う意味での良さは乏しいと考えられます。なぜならば、この言葉に具体的なイメージとして多くの人が共有できる画(画像)が見えないからです。

「奇跡」という言葉から連想することは人それぞれですし、それによって脳裏に浮かぶ画像もまたまちです。なのに、厄介な事には「奇跡」という言葉を使いさえすれば作品的にイケテルものを作れたというつまらない錯覚で、自分だけがそう思い込む「凡人中の凡人」がたくさんいると思われます。

この類の評価は俳句の世界で夏井先生がよく指摘されるフレーズです。

ですから、例えば俳句という文芸の世界では真っ先に削られてしまいかねない言葉であります。この言葉から連想される風景に共通性はない。人それぞれにイメージはバラバラの千差万別ではとても聞き手に伝わらないと言う意味で低評価です。

スピッツの「空も飛べるはず」という歌には、「奇跡」と言う言葉が使われ、それなりの高い評価を得ているようです。私は画像のない言葉をメインにもってくるときには、前後でそれなりにカバーできる言葉が欲しい気がします。

ファンは「君と出合った奇跡」の言葉を「出会い=奇跡」として反応しているのだと思うのですが、ここでの「奇跡」の概念は人によっては「運命」にも「偶然」にも「神の導き」にも置き換えられると想像できます。

なぜ、人によって概念がぶれるのかは、もともと「奇跡」と言う言葉に画像が伴っていないからです。

ただ、この歌が売れたりすることがあるのは、送り手の歌の詞が素晴らしいからではなく、聞き手が勝手に反応をしてウケているからに過ぎません。例え、つまらないものでも、受け手がよろこんで騒げば売れるだけのことかもしれませんし、或いはこの歌のメロディがかなりイケてるからかもしれません。

・「境地」について

境地で言えば、今時は「ありがとうソング」がたくさんあります。
それは、例えば「今の僕がこんなに幸せでいられるのは、すべて君のお陰で、ほんとにありがとう。これからもよろしくね。」みたいなイメージの曲を私は「ありがとうソング」と名付けてみました。この類はもはや独創性がないという点で没にしたいのです。

・「桜」(サクラ)考

次に、もう久しく前から思うことでは、「桜」「サクラ」を題材(テーマ)にした歌の多いことに私は静かな怒りを覚えているということがあります。

これは、自分に表現力がないから日本人の桜好きの習慣や感性に乗っかっているに過ぎない、いわば逃げ技であります。別の言い方をすれば、取りあえず「桜」を唄えば日本人は納得するに違いないという安易さが許せないのです。

それは聞き手をバカにしているとも言えます。今時のネット社会においては、「桜」は検索に引っかかりやすい美味しいキーワードとして重宝されているということも、きっとあるのでしょうか。

昔から、いろんな花が歌に登場しました。昔は「シクラメンの香り」「赤いスイートピー」がヒットしたり、私はユーミンの才能に目を向けています。「ハルジョン、ヒメジョォン」という歌は素晴らしいし、何かの歌では「エノコログサ」というフレーズもあり、そのいずれも野の草の類であることのスゴサを感じます。

それさえも歌の表現に引っ張りこめるユーミンの他の人には真似のできない才能はスゴイです。桜などには逃げない独創性があるからです。「春よ、来い」にも「サクラ」のワードは出てきません。敢えてその言葉には頼らないというユーミンなりの気概が見え隠れしているのです。

以上、これらのことを皆さんの頭の隅に留めておいて欲しいと思います。

そして次からは折に触れて曲の良し悪しを決めるための一定の基準などについて話していきたいと思います。よろしくお付き合いください。

この記事は、このブログのコンセプトとして固定ページに置いておきます。

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