年代で音楽シーンを追う

コーヒーブレイク

音楽シーンを追うにあたり、とりあえず1960年代から追うことにする。それ以前のものは、あまりなじみがないことと、私の世代としては聞いてもあまりピンとこない部分もあるし、
追えないと思うからである。

◆60年代の現象を追う

膨大な音楽文化のほんの一部、エキスのみでもかすってくれればありがたいと思う。

1962年に「ラブ・ミー・ドゥ」でシングルデビューしたビートルズは1963年はアルバム「プリーズ・フリーズ・ミー」がチャート1位となりイギリスでのステータスは固まった。1964年にはアメリカで発売された「抱きしめたい」がシングルチャート1位となり、以後世界中をビートルズsoundが席巻することになる。

もともと、アイドル的な雰囲気で登場をしてきた彼らだが、天才的な彼らはアルバムごとに非常に実験的な進化を重ね、時代の寵児となった。それらは、こと音楽のみにとどまらず、自由な言動やいでたち(髪型やジーンズなど)、ライフスタイルなども注目され、ビートルズ現象ともなった。

Soundは、メロディアスでいろんな場所で聞こえてくると、すぐにビートルズとわかる。60年後の今でも、例えばテレ東の「なんでも鑑定団」のオープニングテーマ曲としても「ヘルプ」が使われているようにそんなことがちょくちょくある。

以後1970年解散後の「レット・イット・ビー」まで世界の音楽(ポップス・ロック)の中心に存在していた天才的グループだった。

この間、世界中にビートルズマニアが誕生した。私は年代的にビートルズにも全共闘運動にも乗り遅れた口だが、高校出てすぐに東京で間借りした隣の部屋にもそんな人がいた。その人Sさんは、3浪して東大文Ⅲに入ったという人だった。流調にビートルズの歌をアカペラで歌ったてみせて、説明してくれた。

ある時、Sさんが東大の駒場寮に移るということで引っ越しのために部屋を整理していたようで、私に「ヘルメットいらない」と持ってきた。私はデモに行くようなスピリットは持ち合わせていなかったので断ったが、Sさんはベ平和連(ベトナムに平和を市民連合)ならデモにも行くかもみたいな話をしていた。

騒乱の68.69年はそんな時代だったようで、僕が東京に行った72年も、そんな形で残り火がくすぶっていたのかも。アメリカでは言うに及ばず、日本でもベトナム戦争反対の声は大きかった。

◆アメリカでは

一方アメリカでは、60年代は公民権運動とベトナム反戦運動の時代だった。公民権運動とは、主に黒人差別反対の闘いが50年代~60年代へと続いていて、そこに登場したボブ・ディランが「風に吹かれて」の反戦歌で登場すると、一気に運動の旗頭に祭り上げられてしまった。
当時のアメリカンフォークソングは、日本へも導入されていた。しかし日本では、ディランのしゃがれた声ではなく、おしゃれなカレッジフォークの装いで、フォークグループのきれいな歌声で歌われるお利口さんソング的な反戦歌などだった。

ディランは、自分の音楽がフォークという枠の中に閉じ込められている状態がだんだんと我慢ならなくなってくる。1965年ニューポートフォークフェスで、ディランがアコギではなくエレキギターを持って、ステージに現れて歌った時、観衆はブーイングを浴びせた。

その時、フォークファンの古いアコースティック観念に固執する者と、新しいフォークロックの誕生という歴史的意味を理解するファンの真っ二つに別れたのだと思う。

その時「ライク・ア・ローリング・ストーン」や「マギーズ・ファーム」などが歌われてのだという。後々2016年に、ディランはノーベル文学賞の発表を受けて本人がびっくりしたようだけど、歌の歌詞が文学としてミュージシャンがノーベル賞を受けたのは初の出来事だった。

もちろん、60年代のアメリカの音楽はほかにもたくさんあった。

◆ウッドストック(ロック・フェスティバル)

最もメモリアルな出来事は、ニューヨーク州サリバン郡ベセルホワイトレイクという場所で行われた野外フェスであると思う。それは、ロシア系ユダヤ人の個人農場主マックス・ヤスガー氏の農場であったという。

1969年8月15日・16日・17日の3日間の開催で当初の予想の倍となる40万人の参加者となり、その多くは「愛と平和・反戦」を主張する若者たちやヒッピームーブメントへの賛同者たちだった。

出演のミュージシャンは30組を超え、そのジャンルも様々だったようだ。
ジョーン・バエズ、サンタナ、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、ジャニス・ジョプリン、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレーン、ジョー・コッカー、ザ・バンド、クロスビー・スティルス&ナッシュ、ジミー・ヘンドリックス 他多数

これには、出演のオファーを断ったというアーティストもあったとの記載もある。
ビートルズ、ドアーズ、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディラン、ジェフ・ベックなどがそうだという。
また、その後1979年・1989年、1994年、1999年の4回記念フェスが行われたようである。

◆AIに聞いてみた

「1960年代の音楽で、今なおスタンダード・ナンバーと言える10の楽曲を教えて」と。
以下が、その回答である。

・「Hey Jude」(ビートルズ)1968年
・「Like a Rolling Stone」(ボブ・ディラン)1965年
・「Satisfaction」サティスファクション  ザ・ローリングストンズ1965年
・「A Change Is Conna Come」(サム・クック)1964年
・「My Girl」ザ・テンプテーションズ 1965年
・「The Sound of Silence」サイモンとガーファンクル 1964年
・「Stand by Me」ベン・E・キング 1961年
・「Yesterday」ビートルズ 1965年
・「What a Wonderful World」ルイ・アームストロング 1967年
・「California Dremin’」 カリフォルニア ドリーミン ザ・ママス&パパス 1965年
そこにはやはり、ビートルズもボブ・ディランも入っている。それにS&Gも。

因みに、スタンダードナンバーの条件は(AIの回答)
1. メロディと歌詞の普遍性
2. たくさん他のミュージシャンからカバーされていること
3. 長年の人気
4. 様々にアレンジされていること
5. 時代背景との結びつき

やはり、ビックネームがそこには並んでいて、みんなが知っているので納得してしまう。60年代のスゴさというものは確かなものが感じられる。いまでもよく聞こえてくるし。

◆では、60年代の日本の状況とは

エレキブームの火付け役となったベンチャーズや、世界中のビートルズ熱が日本でも熱狂的に支持される一方でカレッジフォークもアメリカから輸入され、歌われた。

60年代の半ばに、スタイルだけを真似て大手の音楽レーベルがGS(グループサウンズ)ブームをしかけた。ほんの数年間は少女たちには受けたもののそれらはアイドル路線だったので、音楽的な高まりのないまま数年で終息してしまう。アイドルバンドブームは必然的に終息した。

ところがアマチュア側から、草の根的にムーブメントが発生することになる。
68年に「受験生ブルース」(高石友や)と「帰ってきたヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダース)という和製フォークがいよいよ登場したのだ。日本人の手による初となる和製フォークのスタイルをとったものだった。しかし「帰ってきたヨッパライ」のあのヘンテコな声は加藤和彦がビートルズの実験的な手法から学んで発想したものだった。

どちらも作り方に自由さがあり、歌いたいことを歌いたいように歌うことが根底にあるアマチュアリズムというか、本来あるべき登場の仕方だった。

ところが、「帰ってきた~」に至っては、作った本人たちも予測しないほどの話題となり、
商業コマーシャル側もこれを放っておく手はないと、「ウチから発売してくれ。」とこぞってこの歌を発売したがった。今でいうメジャーデビューというやつ。そのおかげかこれが
ヒットチャートの初のミリオンとなった。もともと、京都で名もないアマチュア学生が大学卒業記念のための100枚ほど作ったアルバムがもとでアレヨアレヨという間に日本中とんでもない騒ぎとなったのだった。

・メモリアルなイベント
69年、70年、71年と3回行われた中津川フォークジャンボリー(野外フェス)は、メモリアルな出来事である。もうすでにそのころにはたくさんのフォークグループやシンガーたちが存在していて、それらが一堂に集合したようなフェスだった。

岐阜の中津川にはその記念館が今もあるらしい。

69年のそれは、岡林信康の歌に聴衆は最も注目した。彼こそが一番プロテストソングの状態があり当時の社会全体の状況とよくマッチしていたからだ。日本全国で、大学紛争が吹き荒れ、安保反対、ベトナム戦争反対が普通に叫ばれていたからだ。音楽を聴く側も鼻息の荒い時代だった。軟弱な歌には、「帰れー!」コールもあった。
ところが、70年になって安保条約が自然継続となると、大学紛争は一気に終息へ向かう。

するとフォークの潮目も変わってくる。大きな流れは、岡林から吉田拓郎へとヒーローがチェンジしていくことになった。70年代に現れるフォークシンガーたちは、内省的な音楽をもっぱらとするようになる。それで音楽性は上がったがプロテスト性は後退する。

私の支持する加川良氏は、70年・71年と中津川にに登場する。「教訓」はブラックな体制批判が聴衆に受け、以来、最後の最後まで良さんはライブでこの歌を歌い続けた。僕は、良さんの入院前の最後の?ライブを福岡で聞いたときも、「教訓」はあった。2016年12月のことである。

ぼくは、1974年リリースの5枚目アルバム「アウトオブマインド」の10曲を聴いたのが良さんとの付き合いのはじまりで、もちろん、それ以前の歌も知ってはいたけど。

良さんは、時代がフォーク → ニューミュージック → Jポップ →?と変遷してゆく中で独自の生き方を貫いた人だと思う。日本全国のライブハウスを1年かけて回るというようなスタイルで死ぬまで歌い続けたのが良さんだった。

だから毎年、九州のどこかで歌を聞きに行った。そのうちに何枚かの絵ハガキをもらったりもした。

音楽における僕のリアルな時代は主に70年代だけど、70年代、80年代、90年代のことについては、次回に送ることにしよう。

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