◆70年代の日本の音楽シーン

コーヒーブレイク

◆70年代の日本の音楽シーン

この国の70年代の音楽シーンをググってみて改めて思うことは、そこには黎明期から、成長期、発展期、変貌期までの何でもかんでもがすでに出揃っていて、どうりでその時代に立ち会った一人の人間として、楽しかった思いは当然の結果であったんだなという感慨を深くした。

私がメモリアルだと思うアルバムやシングル曲について以下に挙げてみたが、それは全体からすると一部なものになるとも考えられるが、基本的には挙げるべきものを選んだという自負はある。

□1970年:

(アルバムを㋐、シングルを㋛と表記しました。)
⊡1970年
㋐「ゆでめん」(アルバム)はっぴいえんど
㋐「青春の詩」吉田拓郎

⊡1971年
㋐「風街ろまん」(アルバム):はっぴいえんど
㋛「あの素晴らしい愛をもう一度」(加藤和彦/北山修)
㋐「間なんて」吉田拓郎

□1972年
㋛「結婚しようよ」(1月)(吉田拓郎)、㋛「赤色エレジー」あがた森魚(4月)
㋐「断絶」アルバム(シングルカット「傘がない」)7月(井上陽水)
㋐「センチメンタル」12月 井上陽水
㋐「元気です」吉田拓郎

□1973年
㋛「神田川」(9月、かぐや姫)
㋐「ひこうき雲」11月)荒井由実
㋐「氷の世界」井上陽水
㋐「お伽草子」吉田拓郎

□1974年
㋛「赤ちょうちん」11月 かぐや姫
㋐「黒船」11月 サディスティック・ミカバンド
㋐「ミスリム」10月 荒井由実

□1975年
㋐「ナイアガラ・ムーン」大瀧詠一
㋐「コバルト・アワー」荒井由実
㋐「ソングス」4月 シュガー・ベイブ

□1976年
㋐「14番目の月」11月 荒井由実
㋐「CIRCUS TOWN」山下達郎
㋐RCサクセション3rdアルバム(スローバラード)

□1977年
「ナイアガラ・カレンダー」大瀧詠一
㋐「SPACY」山下達郎
㋛秋桜 山口百恵(さだまさし作詞・作曲)

□1978年
㋛勝手にシンドバット サザン・オールスターズ
㋐「流線形」松任谷由実
㋐「GO AHEAD」山下達郎
㋛山口百恵 プレイバックpart2作詞作曲(宇崎竜童、阿木曜子)
㋛山口百恵 いい日旅立ち作詞作曲(谷村新司)

□1979年
㋐「OLIVE」松任谷由実、「悲しいほどお天気」松任谷由実
㋐「MOON GLOW」山下達郎
YMO ライディーン(高橋幸宏)、テクノポリス(坂本龍一)

□1980年
㋐「時のないホテル」松任谷由実、「SURF &SNOW」松任谷由実、
㋐「ライド・オンタイム」山下達郎
㋛山口百恵 さよならの向こう側(阿木曜子、宇崎竜童)

四畳半フォーク(生活派フォーク)

「赤色エレジー」や「神田川」など(他多数)の作風の歌は、それまでの歌にはない若者の情緒があって、四畳半フォークと揶揄されながらも、足元を見つめる生活派フォークという積極面も持ち合わせていたと言われる。

私自身も高校卒業と同時に東京に出たときには三畳一間のしがない学生暮らしだった。神田川の歌のように若さだけが頼りの心細さがあり、当時の多くの学生たちの共有する感性があったように思う。だからヒットした。

作詞の北条忠氏自身の早稲田時代の思い出や経験からこの詩が生まれ、南こうせつ氏は電話でその詞を聴きながら同時進行的にメロディが浮かんだというから、それこそ詞がメロディを呼ぶというヤツなのでしょう。

ユーミン曰く、「四畳半フォーク」という命名者は自分であるということだが、これにはほかにも説があるらしい。ともあれそれらは、70年代前半の空気を代表するヒット曲の数々ではあると同時に、68・69年のお祭り的学生運動事象の裏返し的な関係にあるようにも思う。

また、吉田拓郎氏の「結婚しようよ」は、少し筋が違うと思う。つまり、世の中の古い常識的な結婚の条件(要件)を軽々と蹴とばして髪の長さでそれを決めようというのだから、「古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう」の精神にも通じる面があると思う。

そしてもう一つ続けてヒットした「旅の宿」は、68・69年の大騒ぎの後のちょっとタイムを取っての休日気分で休もうよというようなノリの粋さがあって注目されたように思う。

「傘がない」井上陽水について

70年代に「現代のエスプリ」という冊子に「傘がない」の分析評論があった。
この歌の背景にある主人公の心理は、新聞の片隅にある「若者の自殺が増えている」という社会的事象と、彼女に会いに行くのに「傘がない」という困った個人的理由の間でアンビバレントに揺れながら、それでも会いに行きたい気持ちを認めてほしいみたいな、そんな切々さが感じられる。

もう久しく若い人たちが、社会的な事象に引かれるということは稀であろうことを思う時に、68・69年の大騒ぎした時代の影響を引きずりながらも、新しい時代の変化に乗り切れない曖昧さや後味悪さがまだ存在した時代が70年代前半だったということかなと思う。

翻って四畳半フォーク(生活派フォーク)には、生活派というだけに一種のリアリズムのような妙があって、そのリアルなイメージには惹かれてしかるべき表現の価値があったからこそ支持されたのだと思う。

思えば当時は映画でもリアリズムが追及された作品が多かったように思う。アメリカ映画だがサム・ペキンパー監督作品の「わらの犬」とか「コンボイ」のような映画にリアリズム作品として時代のキーワードになっていたように思う。
私も嫌いではなかった。

ニューミュージックとは

70年代の後半になると「ニューミュージック」という言葉がよく言われるようになる。68・69年のプロテスト性の強い時代→→70年代前半の四畳半・生活派フォークに時代→→ニューミュージックの時代 という変遷は確かに私自身目撃したように思う。

「ニューミュージック」とはとても乱暴な言い方である。何をもって「ニュー」とするのか、「四畳半・生活派」フォークとは袂を分かつという意味での「ニュー」なのか、その辺がポイントなのだろうが、現象の中心は荒井由実(松任谷由実)の音楽活動の進行に伴って形が明確になり、ニューミュージックという言葉が定着したのだと思う。

実は、70年代にはもう一つ重要な点がある。69・70年時点ですでにロックのスタイルを取り入れて活動をしていたはっぴぃえんどの存在である。70・71年のアルバムは今でも日本のロックの草分けとして評価されている。

解散後、彼らは→→ティンパン・アレー→→YMOへと変貌していくその活動は、ユーミンのスタジオアルバムに関与していたし、メンバーが錚々たる顔ぶれなのであります。

□はっぴいえんど(1969-1972):細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂、松本隆
※大瀧詠一氏は、解散後ナイアガラレーベルを設立し、松本隆氏の誘いでロング・バケーションをリリース(1981)し、ヒット。

□ティン・パン・アレー(1973-1977):細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、佐藤博、林立夫

□YMO:(1978-1983):細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏
※高橋幸宏氏はサディスティック・ミカ・バンドを経て、YMOに参加。

日本の新しい音楽は、これらそうそうたる逸材の存在によって支えられ発展してきたということがわかります。彼らの横のつながりは広く網の目的に絡み合い、コラボによる化学反応はより新しくレベルの高い音楽を作り出してきたのでした。

2025年の今の今に至るまで70年代の影響は私たちの中に続いていると思う次第です。そして、次は80年代の音楽シーンについて書こうと思います。

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