歌詞はいわゆる表現でなければならない!
例えば、画家がキャンバスに向かって絵筆を持ちながらも、そこに絵ではなく散文の文字を書き綴ったとしたら誰もが変だと思うに違いない。
通常、絵画は具象画や非具象画によって構成されるものであり、「散文≠絵画」という認識が一般的だからです。色や形を伴った表現がいつも絵画にはあるのでそうなるのだと思います。
ところが、メロディーに乗せて歌う歌詞の場合はどうでしょうか?
最近、よく耳にする歌の歌詞には「自分の思いを延々とぶちまけるだけのもの」が多々あります。
「自分の思いのぶちまけ」とはいわゆる往々にして散文形式にならざるを得ません。それは、散文言葉には映像やストーリーのイメージが乗っかりにくいからです。
散文も詩(詞)も確かに同じ言葉(言語)によって綴られてはいますが、厳密に言えば、共有すべきイメージというものが存在するのかしないのかという決定的な相違点があります。
言語が同じなので、勘違いが生じやすいというややこしい現実がありますが、冷静に考えてみましょう。
例えば、「お母さん、今日ね〇★〇君が〇☆でうれしかったよ」とか、「君(女性)の存在のお陰で僕は幸せだよ」とかいう会話や思いを伝えようとする状況が成り立つのは、話し手と聞き手の間柄がもともと近しい関係の場合だからこそ、その気持ちが共有できるものなのですよ。
ですが、歌の歌詞の送り手と聞き手の関係はそうではありません。関係の深くない、いわば、見ず知らずの他人の思いを受け止めて斟酌できておまけに共感や共有するなんてことは常識的には考えられないことです。
顔見知りの近所の人に道で会った時でさえ、私たちは思いの丈などは日ごろ語りません。よくあるパターンは「いい天気ですね。」「暑いですね。」とかのもともと五感で感知・共有されていることがらです。
だから成立するのです。
散文的な表現では、あなたの思いの丈は聞く人に伝わらない(それほど言語は脆弱なもの)
日常的に近しい関係にない他者からの愛の言葉やねぎらいの言葉は、通常は共有しにくいものであり、それが例え歌の歌詞であったとしても共有されにくいものであります。
ところが、最近「自分の思いの丈を歌詞として綴ること=等身大の自分を表現すること」として、是認・高評価されるという誤った風潮が蔓延しているように思えてなりません。
そもそも、あなたの思いをストレートに書けば、そのまま伝わるはずだと思うのは、大きな勘違いです。
はっきり言いますが、それはNGです。文芸としての表現とは言えない最悪な出来栄えにしかなりません。
ユーミンの歌のようにもはや、スタンダードナンバーになっているような歌には、そうなるだけの要素と表現力がある。そうして、ユーミンの歌詞の世界が長年に渡って多くの人々をひきつけ共有されてきたのかというカラクリはそこに秘密があるのです。
あなたも、その表現力を身に着けるべく鍛錬しましょう。
ユーミンの書く歌詞は散文ではない。
彼女は、思いの丈を「直接に」ではなく映像とストーリーとして言葉で表現しているから、聞き手にイメージとして共有されやすいということを熟知しているのです。
よく見ていただきたい。彼女のほとんどの歌詞は、特に出だしの数行は必ず情景描写から始まっています。
ランダムに拾ってみましょう。
・「快速電車を見送った 川近い駅の夕焼けに~」
・「ふた駅ゆられても まだ続いてる 錆びた金網線路に沿って~」
・「あの人のママに会うために 今、ひとり列車に乗ったの~」
・「北風のベンチでキスしながら 心では門限を気にしてた~」
・「浄水沿いの小道を 時折えらんだ~」
・「青いエアメールがポストに落ちたわ 雨がしみぬうちに急いでとりに行くわ~」
・「砂埃の舞う道のわきに 小さなガソリンスタンドがある~」
・「骨まで溶けるような テキーラみたいなキスをして~」
・「ゆうべロビーのソファで出会い 愛し合った紳士は 朝焼け前に姿を消した~」
・「中央フリーウェイ 調布基地を追い越し 山に向かっていけば~」
・「青いとばりが道の果てに続いてる 悲しい夜は 私をとなりに乗せて~」
・「川向うの街から 宵闇がくる 煙突も家並みも切り絵になって~」
アットーランダムにちょっと拾っただけのこれらの歌詞の書き出しを見ただけでも、言葉がとても視覚的な映像で綴られていて、そこにそっと「情」が絡めてあり、聞く人の脳裏にイメージとしての映像が浮かぶカラクリになっていることがお分かりいただけるだろうか?
これらの表現こそが、歌詞表現のひとつのあるべき姿であることに気づいてほしいのです。
もちろん、作詞法のすべてがこれだけではなく、ほかにも有効な手段が存在することはあっても、初歩の初歩としてユーミンはとても分かりやすいのでここに紹介してみました。
ユーミン自身がラジオで語ったことで、いつも脳内カメラの3つぐらいでイメージを作り歌詞を書くようにしているとは、いかに彼女がビジュアル(映像)を大切にしているかがお分かりいただけるだろうか。
映像イメージであれば、そこに、聞く側とのイメージの共有が生まれるということを意味しています。
他にも例えば、「パワーワードの取り込み」や「セリフ仕立て」、「シュール表現」などいろいろな方法があるのですが、すべては「歌詞はいわゆる表現でなければならない!」というセオリーに値するものでなければなりません。
散文的な思いの語り調というのはNGです。それは「表現」には値しないからです。
なのに、その失敗作が世にあふれているのはとても残念なことです。
そこに共有されるのは歌い手の「思い」ではなく、表現された映像のイメージや想起されるストーリーのイメージによるものだと認識しましょう。
歌詞表現には宿命的にレベルの差が存在する
表現は絵画や版画、デザイン、彫刻などの芸術一般がそうであるように、歌詞表現にも宿命的にレベルの差が存在するわけです。
ところが、手に入れるための価格に差の出る芸術作品とは違って、CDや配信には傑作も駄作も同じ金額での入手が出来てしまうがゆえに、楽曲の芸術的表現に差があるということに気づかない人が大多数であるという現象を生むことになります。
ヒットするかしないかも、必ずしも曲の良し悪しとは比例しないものです。アイドルの歌など大したものではなくてもヒットしてしまう現象は多い。また、プロモートにかける資金の多い少ないが大いに影響するし、聞く側の大衆のレベルが影響することもあるからです。
私の場合にはカラオケで歌いたい質の高い曲を指定しても、それがカラオケに入っていないということがしばしば起こります。カラオケも玉石混交だということが解かります。
なのに、世の中に蔓延している思いを押し付ける調の「つまらない歌詞にも、うっかり感動している」という現象は言語が同じであるがゆえに起こる安易な錯覚によるものです。
そして本来は、共有できていないものに対して、錯覚して共有してしまっているかのような現象はレベルが低いときに起こりがちです。
みなさん、自分の胸に手を当ててよくよく自分の感性について検証し直してみませんか。
いい歌はいい映画のイメージに共通している
映画は、映像シーンと会話によるストーリー、そして音楽の要素で作られている。ユーミンの楽曲はそれらがバランスよく融合されていて映画さながらのシーンを思い浮かべながら聞くことも多い。
因みに映画の場合も「駄作も傑作も料金が同じ」だったり、歌と共通している。
ある歌にイメージできる映像があり、ストーリー性が感じられるとしたら、とりあえずスタート地点にあるとは考えられるでしょう。
その先に、シーンの研ぎ澄まされ感やストーリーの秀逸さのレベルが問われることになるでしょう。
それらを考えながら歌を聴く習慣を身に着けていきましょう。
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