ユーミン「ハルジョオン・ヒメジョオン」のスゴさとは? メイクドラマ曲その3

メイクドラマ

ユーミン「ハルジョオン・ヒメジョオン」のスゴさ。時間的奥行き、空間的広がりが半端ない

「ハルジョオン・ヒメジョオン」
松任谷由実:作詞、作曲

川向こうの町から宵闇が来る
煙突も家並みも切り絵になって

哀しいほど紅く
夕陽は熟れてゆくの
私だけが変わり みんなそのまま

ヒメジョオンに埋もれて くちづけをした
土手と空のあいだを風が渡った

哀しいほど紅く
川面はゆれていたの
越していった日から顔も忘れた

哀しいほど紅く
心は燃えているの
思い出すそばから葬るくせに

哀しいほど紅く
夕陽は熟れてゆくの
私だけが変わり みんなそのまま

(アルバム「紅雀」の2曲目に収録)

あまり長い歌詞ではありませんが、曲のイメージはかなり強烈だと思います。あなたはこの詞を読んでどう感じられるでしょうか。

<この曲のスゴさとは? 私の分析>

1.この曲の「空間的広がり」と「時間的奥行き」

曲の中の主人公は、川の土手の上に立ち川向こうを眺めています。時間は夕暮れ時で、西の方の川向こうから宵闇が迫ってきます。この書き出しの2行にロケーションの設定としての主人公の立ち位置や周りの光景の映像が完璧に描かれています。

そのシルエットのようになった町全体の光景は美しく、耽美的に映えています。

私は若いある日のことを思い出すと、その川の土手に寝転び、ヒメジョオンに埋もれながらくちづけをしたという記憶が蘇ってくるのです。

「土手と空の間」とは子どもにとって広大な地平線のように見えるのです。ですから、記憶の中の心象風景はとても広い光景だと思います。

おそらく、それは幼い頃の出来事で、「越していった日」とは学校を転向して他の町に行ってしまったということでしょうか。子どもの頃は、転向した友だちと長く繋がり続けることは難しいのです。

でもそれはすでに遠い昔のことで、月日は流れ自分だけが変わってしまったと感じるのです。ここには、場の映像とともに時間の流れが同時に上手く表現されていることに、私は驚嘆します。

大人になった主人公が、今何をしているのか、結婚をしているのか独身なのか、もしかしたら離婚して生れ育った街に久々に帰って来たのかもしれない。

小説や映画など、そんなメイクドラマとしてのオープニングシーンとして、この歌の場面をもってきてはどうでしょうか? 私は結構いけると思うのですが。

この歌はアレンジも最高です。なぜ爆発的なヒットをしなかったのか不思議です。

ユーミンは、表現者としてどんな立ち位置にいるのかと思う時、都会の20代~30代女性のほろ苦い経験の代弁者なのではないかと思ってきました。

都会の多くの、女性に「あるあるそんな事、過去にそんな経験が」と思えるような「あるある話」が表現されている。それも、とても計算されつくした完璧なプロットとして。

そこに、彼女が長く人々に支持され続けてきた所以があるのです。

記事に空きスペースができたのでもうひとつ、メイクドラマの傑作作品をここに紹介します。

<雨に消えたジョガー> 松任谷由実:作詞、作曲

あたたかい朝もやが雨になる
眠った通りを響かせ
うつむいたランナーがあらわれる

おととしの夏休みあの人の
タイムをおどけて計った
彼は今かけているシーツの闇を

病気の名前は
Myelogenous Leukemia (ミエロジエーナス ロイケミア)
図書館のいすはひどく冷たく
できるなら肩をよせ走りたい
雨にきえて

彼だけ知らないなぜみんなが気づかうか
もうすぐひとりでボートに乗るの

去ってゆくオレンジのトランクス
やっぱりちがう人なのね
過ぎた日のまぼろしを見ていたの

できるなら肩をよせ走りたい
雨に消えて

2.<この歌のドラマ性とは>

この美しい詩的な歌詞に、どんな分析や説明が必要だろうかと、私は自問自答しながら書いています。

出だしからすでに映画的です。たった3行ですが掴みとしては完璧です。早朝のまだ深い朝もやの中から一人のランナーが現れる。季節は春でしょうか? でも彼はなぜかうつむいているのです。

そうです。彼は珍しい不治の病である難病にかかっていて、そのことはまだ本人には知らされていないというドラマ的設定です。

ランナーである彼が「シーツの闇をかけている」という表現は実に上手いものですね。
病気の名前が出てきますが、あまり聞き馴染のない病名ですが、それはいわゆる骨髄性白血病のことのようです。アスリートの池江里佳子さんもそうでしたね。

復活しつつある池江さんとは違い、彼の場合には亡くなったのでしょうか。
「ひとりでボートに乗る」という言葉がそれに当たるのでしょうか。

最後のくだりでは、たまたま見かけたオレンジのトランクスの若者を見て、過去の学生時代の記憶が蘇ったわけです。そこにはすでに時間的隔たりがあって、それを「まぼろしを見た」と表現しています。

「シーツの闇」「まぼろし」という究極の言葉選びがなされていますね。

ドラマ仕立てにするということは、ストーリーの局面局面のテーストをある時は時間的奥行きを効かせ、またある時には空間的広がりの映像にして魅せるというものです。

総てのドラマはそういうものなのですが、これを歌(楽曲)の中で完結するには、相当の言葉選びが必要です。ユーミンはその意味では計算高い確信犯であると思います。(これは彼女へのリスペクトです)

ユーミンの胸のうちには、明確にこのようなドラマが浮かんでいるわけだから、彼女は自ら映画を作ればいいと思うのですが、どうしてメガホンを握らないのか不思議ですね。

ユーミンには、他にもドラマメイク仕立ての歌がたくさんあります。あなたも探してみられてはいかがでしょうか。

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