「なぜ最近の歌は歌詞が軽いのでしょうか?

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■「なぜ最近の歌は歌詞が軽いのでしょうか?」

これは、2022年7月に書かれたID非公開の方のご意見です。ヤフー知恵袋か何かのものでしょうか?

例として、adoさんの「うっせぇわ」とかの歌詞に内容がないと言われています。その返す刀で(その方の幼少期の時の)コブクロ、スキマスイッチ、レミオロメン、YUI、バンプ、宇多田ヒカルなどは心に響くとされています。

14人の方が共感し、13人の回答が寄せられているようです。
・2006年頃~、サビの歌詞のいい曲が多かった。
・AKBあたりから意味のない楽曲が増えた。
リスナーが満足するならそれがすべて。
・メインストリーム(主流)で活躍するアーティストはリスナーのウケを狙って作っている。
・歌詞が軽くなったのは、若い世代の頭が悪くなったから(スマホばかり使っていたらアホになる)
・昭和生まれのおじさん、おばさんにはコブクロ、スキマ等のそれすら軽いと感じるかも。
・私学生ですけどadoの歌は全然響いてきません。
・adoのうっせぇわ、中学生の気持ちになって読んだら凄く良い。JPOP中身スッカスカ。コブクロ、スキマスイッチ、レミオロメン、YUI、バンプ、宇多田、みんなスッカスカ。(あなたには理解できないでしょうが)最近の歌詞は工夫が凝らされていて今の時代性を感じるものも多く、思春期の葛藤を素直に表しているようで、リリックメ-カーとしてはとても感心します。

その他、「最近の歌は歌詞がうすっぺらい」、「最近の歌 何言ってるかわかんない
」、「最近の歌が聞きとれない」などの声もある。

中には、近々の歌の歌詞に肯定的なものもあります。是非、歌詞のどこがどう優れているのかなどご意見をご披露していただければありがたいです。

■私のちょっと一言

いろんな人の意見をまとめてみると「歌詞が軽い」の「軽い」とは「薄っぺらい」の意味するところと同義だと思われます。それではなぜ「軽い」(=薄っぺらい)と感じられるのでしょうか?

それは、歌詞の意味する内容について「軽い」と感じているのだろうと思うのですが、もしも、歌の送り手がリスナーとしてのターゲットを中学生に設定したとすると、それは歌詞が軽くなるのも当たり前かもと思います。中学生に共感を得られるためには相当にレベルを下げる必要があろうかと予測できます。

しかし、なぜ中学生がターゲット?かと思うとちょっと首をかしげたくもなります。

なぜ、ターゲットが中学生なのか?
そんな必要がどこから出て来たのか? 不思議に思います。企業側の販促のための戦略なのだとしたら、曲のレベルを低くする要因にはなり得ます。

企業側は、まだ音楽的嗜好の固定していないニュートラルな世代をターゲットとすることを専らとしているのでしょうか? つまり既に手あかのついた世代は狙っても売れる可能性は少ないと見ているのか。

そのようなマーケット事情に影響されて音楽という一つの芸術分野が規定されてしまうのは本末転倒と言わざるを得ません。

「音楽は一つの芸術分野であるべき」と思う私ですが、せっかくのこの際ですからその点も少し検証してみましょう。

■音楽は芸術か?

私自身は「音楽=芸術」と規定したところから思考を始めることにしています。そうすると、芸術分野のひとつとして映画や、絵画など他の分野の芸術とも同じフィールドで比べやすくなるという利点があります。

私の中では、その歌を聴くと映像化されるイメージがどれほど鮮明であるかという点を特に重要視しています。

〇例として絵画で考えてみましょう

絵画が一躍進化した時期として、ルネサンス期を考えてみた時にやはりそれは、それ以前の絵画に対する反発から始まっているように思います。ヨーロッパ中世は教会の権力が強大だったために、芸術や科学などは停滞していた時代でした。

それがルネサンス期に大きく変わったのは、芸術分野ではすなわち宗教芸術が主流だったことへの人々の反発があったからだと思うのです。
それまでは、絵画や彫刻が教会権力に奉仕するものとしての存在だったことに対して、人間復興の思想が胎動したからです。そこに、タ・ヴィンチやミケランジェロの価値があったのです。

その後、モネに始まる1870年代からの印象派の胎動がありますが、それはまたルネサンス期以降の芸術の主流に反発する形で登場しました。サロン・ド・パリという時の主流とされていた絵画に対して、絵に光を表現するとの主張はやがて認められて主流へと移行していくのです。

ゴッホなどもその流れから登場してくるのですが、強烈な異彩を放っています。さらにその後、ピカソに代表されるようなキュービズムの時代へと移行していくのですが、いずれも新しいものへと移行するときには、それまでの主流に対する否定や反発が思想の根拠となり、エネルギーの源になっています。

20世紀のポップアートはアンディー・ウォーホールやキース・ヘリングによって確立され、バンクシーのブラックユーモアも独創的です。それらには、確かな主張と技術や才能が感じられます。

しかも「反発」から生まれるものは、その反発する対象を芸術的にも凌駕するだけの実力を発揮して見せなければなりません。それによって新しいものが認められてきたのです。

〇では、音楽についてはどうでしょうか?

ヨーロッパの有名なクラシック音楽家のほとんどは、もともとパトロンとしての貴族たちの支援によって活動が成り立っていました。ですから、パトロンとの関係の良し悪しによっては困窮するような場面もあったと言われています。

バッハのバロック音楽(17~18世紀)からハイドン・モーツアルト・ベートーベンの古典派(18~19世紀)、そしてワ-グナーやチャイコフスキー、マーラーなどのロマン派(19~20世紀)へとクラシック音楽も時代背景とともに、教会音楽の縛りから大衆音楽へと進化していく過程はやはり、古い秩序や縛り、ある階級の独占などに対する反旗を翻す新しい潮流(エネルギー)によるものがあると考えられます。

その点では、絵画の進化とも似ています。やはりそれらは芸術たるものの宿命なのかもしれませんが、常に芸術が進化するものであるとの規定が正しくない場合も考えられます。

それは、ヨーロッパ中世のように芸術が教会の権力に寄与すべきものとされたり、全体主義や共産主義の国家権力に規制されたときに停滞を余儀なくされます。

それだけではありません。この国でもすでに起こっている現象があります。若い人たちの映像や音楽の見方、聴き方が倍速になり、それにマーケットが反応するという本末転倒が起っています。

マーケットの送り手側が、聴き手の傾向に合わせた曲作りをしてしまうということは、歌の送り手側が聴き手に規制されている、別な言い方をすれば歌の送り手側が聴き手に媚びを売っているということですね。

楽曲では、曲が突然サビから始まったりしています。米津玄師氏などの歌は、いつもそうでそれは明らかに売れんがための曲作りです。私などは、前奏も間奏も後奏もすべてフルで堪能したいと思うタチなので、どうも性に合いませんが。

現代音楽のなかではクラシックという分野は一つ確立されたジャンルとして今も盛んに演奏されていますが、私たちが日常的にポップスやロック、歌謡曲を聴くような同じレベルで嗜んでいるかと言えば、そうばかりとは言えない面もあります。

むしろ、それらは映画音楽などに要素として反映しているというような進化を遂げたのかも知れません。また同時に音楽全体が多様化して、欧州のルーツばかりでなく、中南米の音楽やリズム、ジャズなどの別な所にルーツを持つワールドワイドな音楽の時代であるとも言えます。

そして、異文化音楽とのコラボレーションも現代では当たり前の時代です。コラボは1+1=2以上の化学反応を起こすことが多々あり、結果がいい場合は多いと思います。

■「なぜ、最近の歌は歌詞が軽い」のかの本題にもどりましょう

いくつかのことが考えられますが、私は、まず第一に主流の既定路線や権威に対する「反」の意識が薄いからだと思います。既成のものに反発するにはそのための思想が必要でそれが表現の根源的なエネルギーとなるのです。

その上で批判する対象の上をゆく表現力とアート価値を創出できなければならない。それが、新しく創作活動をする人たちに課された課題です。

そのことを頭に置いたうえで、大衆の音楽が20世紀にどのように進化、激動したかを簡単に見てみましょう。

一つは、60年代アメリカの公民権運動の中から登場してきたボブ・ディランの存在が大きいと思います。そして、それと同時期にイギリスのビートルズが世界的に音楽シーンを席捲した感があります。

※公民権運動とは、黒人差別からの解放運動です。凶弾に倒れたキング牧師はこの運動の牽引者でした。

もちろん、それらのルーツとなるそれ以前の音楽はあったのですが、ディランとビートルズ、その二つは大きな歴史的規模の渦の中心だったと思われます。

これはその後のミュージシャンに甚大な影響を与えました。この二つのモデルを意識せずに創作活動をすることは困難であったとさえ思います。

ディランの放つメッセージ性、ビートルズのメロディーメーカー性はともに秀逸でした。そこが一つの基準となったからこそ、ポップス界全体の底が大きく持ち上がったのだと思います。

日本の場合も例外ではありません。カレッジフォークからディランへの流れ、ビートルズブームの影響はこの国にもロックを誕生させました。その走りはハッピーエンドあたりでしょうか。

海外からの風は日本人アーティストたちの音楽レベルを確実に持ち上げて、優れたアレンジャーによるアルバム作りが可能になってきました。

68~69年は日本中が反安保、反戦に揺れ音楽もそんな社会状況を反映していました。70年になり、安保の闘いが収束するのと入れ代わるようにして、歌の内容は内向きになっていくのですが、その代わりにそれまでのアングラにあった音楽が世間の表舞台に飛び出してきました。

その時には、それまでの体制的な流儀とは少なからず摩擦が生じていたはずです。世界中時代はまだ反戦、反体制の「反」の意識に溢れていました。そのエネルギーがビートルズ現象の潮流と合いまった時にかなりヒートしていたように思います。

特に70年代前半あたりは、歌謡界という利権体制に対する反発が強くありました。それは多彩なエネルギーの元となって、いろいろなミュージシャンの多彩な個性が花開いたのです。今風に言えば、それぞれがキャラ被りの少ない独自路線の共存です。

しかもとてもミュージシャン同士の横のつながりが強く、コラボレーションによる新たな化学反応も多くありました。歌詞もそれぞれ独特で、訴求力の強いものが多かったように思います。

80年代になると、松本隆作詞・ユーミン作曲で松田聖子が歌うなどのようなことが当たり前のように起こるようになります。これもある意味コラボでしょうか。時代は、その後境界線をだんだんと曖昧にしながら、今に続いてきたのでいた。

であったとしても、今ある特徴的な「聞こえない」、「意味不明な」、「自分の思いを発露するだけ」のようなものは少なかったと思います。その意味では、やはり歌詞の重さは「反」の意識の強さと連動しているように思われます。

では何故、現在では「反」の意識が薄れているのでしょうか?
・社会的な「管理」が行き渡って進んでいるから?
・情報が操作されていて、体制にとって都合の悪いことは微妙に隠されているから?
・若い人に気概が少ないから?

しかし、推しが例えばadoであったりすると、その人たちは十分に「反主流」なのだと主張するかも知れません。「聞こえない」「意味不明」「自分中心のわがまま」というのは、そのまま反主流意識が支持されて10代に売れたのかも知れません。

■推しの音楽や曲は、どうしても世代性に引っ張られる

「10代の思春期にどんな音楽を好んで聴き、どのように影響を受けたかかが、その人の人生の相当部分の音楽性を規定してしまう」というのは、言い過ぎでしょうか。

実は、同じ世代であっても最近は趣味が支分五裂してそうな時代ですから、上記のことは言い過ぎかもしれませんが、それにしても世代性に引っ張られていますね。

ですから、違う世代の人とは話が合わない、好みが合わない。知っている歌が合わない。一方では、シティミュージックとして昭和の歌がJ-Popとして、世界で受けている現象も不思議です。

■評価のための一つの物差しを決めよう

だから、物差しとしての基準を決めて、どんな世代のどんな曲も同じ基準で評価、査定をしてみると良いと思うのです。
TV番組のプレパトでは、俳句の分野で老若男女いろいろな世代が5・7・5という17文字の世界で「才能アリ」「凡人」「才能ナシ」を競い合うのですが、その査定には俳句の論理や流儀という厳然とした基準があって、夏井先生の明快な説明により、みんなが納得する世界が成立しているのです。

私は、歌詞に関して以下のよう基準を決めて、これまでの記事を書いてきました。
1. 歌詞の世界観に時間的な奥行きはあるか
2. 歌詞の世界観に空間的な広がりはあるか
3. ドラマメイクやストーリー性の要素はあるか
4. 究極の言葉選びはあるか
5. その他
これに関しては次回の記事に紙面を譲りたいと思います。

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