放送禁止歌なるものの概念とその存在やいかに

放送禁止歌

そもそも放送禁止歌とは

みなさん、そしてシンガー・ソングライターを目指しているという貴方は「放送禁止歌」というものの存在について、そもそもご存知でしょうか?

ここでは、ノンフィクション・ライター、森 達也氏の著書「放送禁止歌」を参考にしながら、私の考えを述べることにします。

一口にこのことを説明するのは、実は難しく歴史的な紆余曲折も見られ、現在的には「実際にあると言えばあるとも言えるし、決まりのようなものはないと言えばないとも言える」的な不思議な状態でしょうか。

それはいずれも、主にはテレビやラジオというマスメディア上でのことですが、これは根っこの部分では「表現の自由」や「言論の自由」との関りがあり、シンガー・ソングライターを目指す者の教養として、貴方が知っておくことは必要かもしれません。

放送禁止歌の指定に関する経緯

かつて、放送界には日本民間放送連盟(民放連)の作成するガイドラインとして1959年に発足させた「要注意歌謡曲制度」なるものが存在したとあります。

しかも、それは1983年度版を最後とし、効力が5年とされているので1988年をもって、この制度は機能を失っているというのが、形式的・表面的な表向きの回答であります。

が、しかしこの後も、現在も尚テレビ・ラジオにおいては問題はあると私は思っています。ですから一般的に言われている「放送禁止歌」のようなものが未だにあるという強い私の実感は以前と何も変わらずに存在しているということの問題性を云々したいと思います。

例を挙げてみます。
「自衛隊に入ろう」「生活の柄」「悲惨な戦い」「手紙」「チューリップのアップリケ」「イムジン河」「竹田の子守歌」「五木の子守歌」「戦争小唄」「つくばねの唄」「金太の大冒険」「網走番外地」などですが、これらはたくさんある歌の中のごくごく一部です。

しかも、これらは1983年版の最後の一覧には載っていない唄がほとんどです。

「生活の柄」は高田渡氏(故人)の唄で、作詞は沖縄の詩人、山之口獏の詩によるものです。本人(高田渡氏)の説明では「浮浪者」という言葉が放送メディアのコードに引っかかったとのこと。

岡林信康氏の「手紙」「チューリップのアップリケ」は、被差別部落に生きる女性の手紙と女の子がモチーフとなっていて切々と歌われます。これもメディアは未だに放送しません。

フォーククルセダースの「イムジン河」は、朝鮮半島における南北朝鮮の分断問題がテーマで、禁止歌の中ではもっとも規制の経緯が解りにくい一曲のようです。もちろん、これにもメディアは背中を向けたままです。

「竹田の子守歌」「五木の子守歌」は、歴史的に原曲が被差別部落の中で生まれ、歌われたものとして放送禁止の烙印を押されたもののようです。メディアはこれを放送しません。

赤い鳥の「竹田の子守歌」は、このグループが原曲を掘り起こし、それをアレンジして、当時「翼をください」の歌とともに両A面レコードとしてリリースされました。

もし、この歌を知らないという人があれば、是非YouTubeか何かで一度は聞いて欲しいものです。美しく染みわたるような名曲です。

リリース当時はじめは「竹田の子守歌」に脚光が集まり、いい歌だ!とのもっぱらの評判の中、ある時からぷっつりとマスメディアから姿を消すことになります。するとなぜか人々の記憶からも撤退していくようなことになります。

そして、もう一つの曲「翼をください」の方は徐々にスタンダード的な評価を受けるようになり、後に音楽の教科書にまで顔を出すようになります。

しかし、この二つの歌が明暗を分けた理由というものはいったい何なのでしょうか。

話題は変わります。泉谷しげる氏「戦争小唄」については昔のことですが、私自身がたまたまお昼のワイドショー番組を見ているときに番組の中で歌われたことがあります。

ところが、突然CMが入って歌は強制的に中断したのです。

メディアにすればこれは放送事故というものなのでしょう。自由主義者の私としては、当時「もっと自由に歌わせろ!」と思った記憶があります。そんなことを思い出します。

「戦争だ 戦争だ 戦争だ 国が認めた戦争だ」と始まる歌ですが、私はこの歴史的瞬間を目撃した人間の一人なのです。

次の週の同じ時間帯には、その番組そのものがなくなっていたというように私は記憶しています。記憶に間違いがなければの話ですが。

■もうお解かりでしょうか。その基準的なものとは?

「要注意歌謡曲」というガイドラインという形での実質規制の網にかかるいくつかの理由とは、おおむね以下のようなことのようです。
1.体制批判的なもの(政治的)
2.被差別部落の人々がテーマのもの
3.お色気、性的な表現もの
4.反社に関する歌
5.グロ的なもの(希に)
そして
6.言葉狩りに抵触したもの(例えば「浮浪者」のように)
etc.etc…ですが、貴方はどう感じますか。

音楽が「表現の自由」の範疇内にある限りにおいて、規制そのものが妥当であるのかという問題が第一にあります。受け手側がそれぞれ判断すればいいことであって、マスメディアが予め先回りして自粛までするべきことなのかということです。

二つ目の問題点は、「要注意歌謡曲」というガイドラインが、現在ではすでに存在しない中で、相も変わらず同じような理由で自粛し続けるマスメディアの姿とはいかがなものか? ということです。

社会に対して責任のあるメディアというものの、自らの判断を放棄したその思考停止状況があってはならないことではないのかと言う点です。

それがなぜ問題なのかというと、自立的でかつ自律的な思考判断ができないメディアとは、もしかしたら権力に対して国民の「表現の自由」や「知る権利」を守れるのかという疑問があるからです。

事実、マスメディア諸氏は、今の今も「放送禁止歌の存在」という「共同幻想」に呪縛されたままで思考停止状態であるということなのですから。

私などは、「放送禁止」措置というものは、むしろ表現者にとっての勲章のようなものであると感じます。芸術を志せば、当然体制的なものとの摩擦はあってしかるべきなのです。

ボブ・ディランは「風に吹かれて」という体制批判の歌(反戦歌)で登場し、今やノーベル文学賞受賞者にまでなりました。

彼が例えばサルトルのようにノーベル賞の受賞を拒否しなかったことの是非は、取りあえず横に置くとしても、X-JAPANが天皇の前で喜んで楽曲を披露したことについてロックミュージシャンとしての魂を疑う私などのような者の目には、あまりにも好対照だからという理由によるものです。

■言葉狩りならいつでも起こる

以下のことは、あくまでも例え話です。
<ケース1>
例えば、貴方が自身の歌で「車椅子」という言葉を使ったとしましょう。するとある障がいを持つ人から、「車椅子の言葉をネガティブな意味で使わないで」というクレームが付いたとします。
すると、それを聞きつけた各方面のメディアがあれやこれやと騒ぎ出したりしてバズり、結局テレビもラジオもあなたの歌を避けるようになる。てなことがあるかも知れません。

 

<ケース2>
片や、乙武洋匡さんのような方が、例えば「僕は、自分が障がい者だと思ったことは一度もありません。」と発言したとしましょう。
すると、その一言に過敏に反応してしまったいろんなメディアが、「障がい者」ということばそのものを使うことを「ダメ」と決めてしまうかも知れません。すると、そういう言葉の含まれた歌が排除されてしまう。そんなことが起こり得ます。
<ケース3>
さらには、「障がい者」のことばそのものに誰かが「障害を及ぼす者」というイメージが悪いと言い出すかも知れません。じゃぁ、「ハンディキャップトゥ」という語にしようかとか、「健障者」がいいとか、いろいろに論議が成されるかもしれません。
また、「ホームレス」と言う言葉がまだ一般的ではなかった時代の「浮浪者」と言う言葉が含まれた歌「生活の柄」が「放送禁止歌」とされた事実のように言葉狩りなら時代の変化によっていつでも起こりうることだと思います。

しかし、言葉はその時代の文化であり、伝達の手段であり、時としてオリジナルな表現であるわけですから、後から理由をつけて「ダメ」という後出しジャンケンのような措置とはいかがなものでしょうか。

最大限、表現の自由を認めて受け手の一人一人が主体的に判断することでいいのではないかと私は思います。

そうしないと、今あるようにメディアの自粛のような現象が、シンガー・ソングライターたちの内面にも起こってしまいます。「●●」のことは歌えない、だから歌わない。「▽▲」の言葉は使えない、だから使わないというように。

それは、全くの本末転倒でありまして、しまいには、「降ったら雨で、照ったら晴れでしょう」みたいな差し障りのない、つまらない歌しか残らなくなってしまいます。もうすでに、意外や意外、世の中はすでにかなりの部分でそうなってしまっているのかも知れません。

そう感じませんか? もしそうなら、あなたがそこに風穴をあけましょう。

■YouTubeで放送禁止歌がたくさん聞ける。

これまでのそのような良くない状況を、YouTubeが一定程度は変えたように思います。以前は聞けなかった放送禁止歌も今ではほとんどYouTubeで聞けてしまいそうです。

面白いですよ。コミカルタッチの放送禁止歌は笑えますし、まずは、曲名と歌い手の名前で検索してあなたも聴いてみてください。勉強になりますから。

価値観の多様化時代です。一律にガイドラインという名の権力的威圧を押し付けるような時代はもう終わりにしたいものです。要は、マスメディアが一つひとつ内容を見極めて、必要とあれば論議するなどして、放送する・しないをその都度決めればいいだけのことではないでしょうか。

メディアは自分自身の頭で考えて判断する。その上で、聞く側は聞く側で自分の頭で考え自分なりに評価すればいいということでいけませんか。それが大人の対応というものだと私は思いますが。

「表現の自由」と「言論の自由」が抑圧されるような時代は、どこかのように戦争も近い時代なのかも知れません。この国で言えば「いつか来た道」ということでしょうか。

芸術・音楽と言論・表現の自由問題性

アートと言論・表現の自由の関係とは、それは古くていつも新しい命題です。貴方が芸術家の端くれとしてシンガー・ソングライターを目指すのであれば、心のどこかにとどめておきたい問題ですね。

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