皆さんは、どうやって音楽を仕入れていますか?
昔ながらのローカルなレコード店は、私の住む町では、もうとっくの昔になくなっていますが、タワーレコードの店舗は唯一?今も存在しています。有難くもあります。
多くの人達は、もうネット配信などで1曲ずつダウンロードして買うという習慣が主流なのではないでしょうか?
中には、山下達郎氏のように「ネット配信はしない?」としているミュージシャンもいるらしく、ほかにもそのような例はあるのでしょうか?
そういうわけで、タワーレコードに行ってみました。
するとどうでしょう。むしろスペース的に大きく幅を利かせているアルバム群は、今時の若いミュージシャンたちよりも昭和のシティミュージックと言われる音楽や、昭和からの大物で、連綿とアルバムを出し続けてきたアーティストたちのアルバム群です。
それにはそれなりのわけがあると思います。というのも、アルバムというものは、本来曲のまとまり全体を通して、一つの世界観をミュージシャンが表現するものです。
それに比べて、若いアーティストの人達は、アルバム思考が薄いと言われます。1曲1曲リリースするのが普通という感覚なのでしょうか。例え曲数を寄せ集めたものをアルバムとして出したとしても、インパクト的に弱いものでしょう。
それに私たち昔ながらの者たちは、アルバム思考が強いのです。アルバムと音楽性、そしてその時代性の関連など、様々に分厚くなっているので質量の違いが感じられて、そのイメージの強さに押されるようにして、どうしてもユーミンや達郎・桑田佳祐や大瀧詠一、細野晴臣、中森明菜等々のアルバム群がタワーレコードの店頭では優生になってしまうのでしょうか?
ユーミンは、ラジオの自身の番組で「自分はアルバムアーティストである」と言い切っています。そうなると必然的にシングルEPばかりではどうしてもアルバムに対して見劣りをしてしまうのでしょうか。
「アルバム指向」で思ったこと
1973年のことですが、井上陽水氏のアルバム「氷の世界」が初めてミリオンを記録したそうです。これは、井上氏のグレートな野心作でA面の1曲目がアルバムタイトルと同じ「氷の世界」という歌です。歌詞はとてもナンセンスなものですが、それはあきらかに意図的なものでしょう。
対してその曲想やアレンジの方はコリコリの野心があらわです。アレンジの妙をこれでもかと発揮しています。それはもう変質的でさえあるのです。
さらにB面の1曲目は「心もよう」という楽曲ですが、これはシングルカットされて、それもよくヒットもしました。まだLPレコードの時代ですから、A面が終われば、それを一端ひっくり返してB面にセットしなければ次が聞けない時代です。
これは、「氷の世界」とは好対照のメロウな陽水流失恋歌です。「心もよう」という言葉も陽水の意図的造語です。造語の使用が大好きな陽水さんの片鱗がすでに70年代当初から見えていますね。
イントロのアレンジはとても印象的に作られています。これもコリコリです。私が推測するに、陽水さんの心底には「自分の恋が成就するはずがない」というテーゼがあり、それは彼自身の十代におけるコンプレックスからくるものではないかと思います。
因みに「氷の世界」の歌詞にある「今年の寒さは記録的なもの、凍えてしまうよ~」のくだりは、奇しくもこの時期(1965年~1975年あたり)が世界的寒冷化の兆しが見えていた時期にもあたり、気候史のよい判例となっているのは面白く感じられます。
陽水氏に限らず、1970年代はたくさんのミュージシャン、シンガーたちのアルバム指向に火が点いた時期です。それには、やはりビートルズの音楽指向であるアルバムの作品群が主流となったことと大いに関係があると思います。
ビートルズは、アルバム作成の中で様々な実験的な楽曲制作を行い、それがそのまま単なる実験を越えて世界中を席捲しながら、受け入れられていったのです。いわゆるビートルズ現象というものです。
単なる音楽を越えて、ライフスタイルや権力的なものとの距離の置き方等々いろいろな示唆をビートルズ世代の人たちに与え続けました。それもこれも彼らのアルバム指向と共に進行したのでした。
当然のことですが、その影響はこの国の新しいアーティストたちへの影響は絶大でした。「ビートルズ世代」とは、日本では主に「団塊の世代」、「全共闘運動世代」とも一致するパワー世代でした。
若い人たちが音楽や行動を通して世の中にインパクトを与えた、珍しい時代でした。今、2千年を大きく超えてビートルズが遠くなるのと比例して音楽性が低下したと感じるのは私だけでしょうか。
私は期待しているのです。今の若い才能ある人たちもビートルズやその影響下で爆発したアルバム群を凌駕するような、圧倒的な時代を作って欲しいものです。タワーレコードの店頭で、シティミュージックやユーミン・桑田を店の片隅に押し込んでしまえるようなパワーを見せて欲しいと思います。
FMラジオ局からCDが消える??
山下達郎氏が先日、自らのラジオ番組でFM東京の中で近々、CDではなくデータから音楽を駆けることになるというような話題を話しておられた。
正確に私が聞きとったのかについて若干の不安がありますが、ラジオ局の中にあってさえもCDが消えゆく運命にあるのだろうことでしょうか?
CDは、もともとデジタル音源ですが、それでさえも淘汰されてゆくかもです。
若い人たちがそうであるように、今や形のないデータとして音楽が消費されるというのは、ちょっと辛いことです。
と同時に、音楽というアートにとって、データを一括して所有したものだけが、それをプラットホームで支配的に売りさばけるということなのかなという、ファシズム的な危険性をも禁じを得ません。
例えば、NetのプラウザにおけるGoogleのように、音楽においても巨大なボスが全体を支配してしまうのではないでしょうか? そこで検索にひっかかってこない楽曲は、まるで存在しないかのような扱いになってしまうのはどうしたものでしょう。
実際に、カラオケもそうなっているのではないでしょうか? 巷には数社のカラオケメーカーがあると思いますが、私の求める曲などは、しばしば検索にかけてもヒットしません。それはとても嫌なことです。
それと同じことが、音楽全体の音源が大きな力によって支配とコントロールを受けることになるのは、果たしていいことでしょうか? 私の歌いたい曲が存在しないことになっているのですから許せません。
例えばその一つに、イントロが限りなく短くなっていることなども、何かにコントロールされていると思わざるを得ません。私は、イントロも間奏も後奏も全部楽しみたいのです。アレンジのレベルがとても気になるのです。
また、曲の中でのコーラス部分や、使われる楽器の種類なども同時に楽しみたいし、ボーカルの歌詞も確実に聞き取れるようなものに価値を感じるのですが、それらが最近はとてもおざなりになっていると感じられます。
FM東京「サンデーソングブック」
山下達郎氏は、FMラジオの自らの番組「サンデーソングブック」の中で、「棚から一掴み」(通称「タナツカ」)という形で、自分のレコードコレクションの中から、適当に取り出した音源を基に番組で披露されています。
そのほとんどは、1950年~1960年代の主にアメリカの音楽が多いのですが、私などのように1970年代からの音楽リスナーにとっては、あまりなじみのないものが多いです。
山下氏のコレクションの膨大さもさることながら、既にそれらの音源は、まずラジオ局にないからこそ自分のコレクションを放出されているのだと思います。つまり、どういうことかと言えば、ラジオ局にない音源はそもそも世の中には存在しないというような人々への欺き方をしているように思います。
私には、それは人々や音楽アートそのものに対する背信行為だと思います。ラジオ局の在り方は、人々の知らないような曲を掘り起こしてでも人々に知らせる義務があるのだと私は思っています。
もし山下氏がいなければ、それらの曲を耳にすることはないでしょう。
メディアがそれを怠るようになると、世の中は確実にファシズムの方へ流れるからです。
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