■歌の中での男女関係は変わってきたが…
歌にはたくさんの「君」「僕」「私」「あの娘」などが登場し、そのほとんどは「男」と「女」の関係性の在り方が透けて見える場合が多くあります。
明けても暮れても男と女、日本人はそんなに恋愛が好きなのでしょうか? 著っと過剰過ぎると私には思えます。
特に演歌の世界では判で押したように同じような価値観による「男と女の関係性」が押し付けられてきました。歌謡曲やフォークの世界でも失恋や別れとそれへの未練心をテーマにたくさんの「僕と君」が歌われてきました。
一時代に吹き荒れた失恋歌にとって代わって、最近は「ありがとうソング」が判でついたように増殖中です。どちらも金太郎飴のようなものです。
特に気になるのは、恋の歌に年代や世代的なバラエティさがなく、みんな十代の恋のようなモチーフに聞こえてしまうことです。
人の人生には、青い恋ばかりでなく、バツイチの恋や、不倫の恋や、壮年・中年の恋、老いらくの恋、20年目の恋、計算高い恋etc.etc~
それこそ、人生いろいろです。
様々なパターンがあるはずなのに、歌では百年一日のごとく十代の恋(純愛)的な雰囲気の時間的奥行きのないものばかりが目立ちます。
そんな状況に物申したいという意識で今回の投稿記事を書いています。取りあえず、「男と女の関係性」の在り方に目を向けたふたつの歌を紹介します。
■「リンゴ」(岡本おさみ作詞:吉田拓郎作曲)
ひとつのリンゴを 君がふたつに切る
ぼくの方が少し大きく切ってある
そして二人で 仲良くかじる
こんなことはなかった 少し前までは
薄汚れた喫茶店の バネの壊れた椅子で
長い話に相槌うって
そしていつも右と左に別れてこのリンゴは昨日二人で買ったもの
ぼくの方が お金を出して
おつりは君がもらって
こんなことはなかった
少し前までは(後 略)
これは岡本おさみ氏(故人)の作詞です。
リンゴの切り方の動作の変容によって、「ぼく」と「君」の関係が変化したことを歌っている。それまでの関係から一歩すすんで、二人の間のリアルな親密さが増したということだろうか。
この先にも、関係の変化は続くことだろう。どちらかが交際の優位性をリードしていくことになるのか、もっとフラットな関係になっていくのか、気になるところでしょうか。
この歌の表現は、まだかろうじて男優位な関係から、それが危うくなりつつあるような過程の表現のようにも見えます。
さて、「リンゴ」に続いて加川良さんの歌を紹介します。これは、女側からの激烈な(男への)反撃の歌です。
言わば、ウクライナがロシアへ徹底反撃をするようなイメージか?
■「女の証」加川 良 作詞、作曲
いつまでさみしい女を
気取っていましょうか
いつまで机の前で
落書きばかり続けましょうか
でも本当は始めから
どうなるかくらいわかってたの
悩んで大きくなれるほど
あたい暇を持て余してられないのそりゃまあ
夜明けの唄なんてのも
かわいいわ
でもあんたっていつも唄わすんですもの
まっぴらよ
おかげで今だ石にも風にも
なれなかったわ
それを女の証だなんて
誰にも言わせたりしないわあたいの命って
あんたのわがままばかり背負ってたわ
もしも今度生まれ変われても
こわれた蛇口だけはたくさんよ
人生なんて見せ物だったわ
売り物にはならないものね
嘘はつかなくてはならないものよ
だからつかれただけなのよ
しめったマッチ 日がな一日
こすってたわ
あんたのくだらない話
まるでくだらないんですもの
あんたは病気じゃなくて
ただ酔っ払ってたのよ
明日はひどい雨ですって
誰の傘にもぐり込むのもちろん貸しは返してもらうつもり
今までずっと奪われてきたんですもの
その分生き長らえてみせてあげる
もちろんおつりは返すつもり(後 略)
これはもはや女から男への激烈な宣戦布告のような強い言葉をこれでもかと言うように叩きつけた歌でしょうか。迫力があります。
ライブハウスの中でこの歌が始まると、「待ってました!」とばかりにファンの拍手が起こります。
「こわれた蛇口だけはたくさんよ」、「人生なんて見世物だったわ」「嘘はつかなくてはならないものよ」、「あんたのくだらない話 まるでくだらないんですもの」等々、演劇の舞台の上で役者さんが叫ぶようなとても強い言葉がずらりと(歌の中で)並んでいるのです。
このような、他に追随を許さないほどの独自性を感じます。
皆さん、どう思われますか? もはや恋の歌などではない、生半可さの欠片もないような激しさの歌で、これまで押し付けられてきた男と女のあるべき関係性というものをひっくり返したような、革命的なものに、私には聞こえます。
ここにこそ、良さんの世の常識に捕らわれない自由な思想があるのだと見ています。ライブでこれを聞くファンは、なぜかスカッとするのです。
良さんにも恋の歌らしきものは若干ありますが、それでもそのほとんどは、とてもこらえ性のある最小限の表現にとどめられています。
同時にとてもストイックです。
良さんのライブ中の、曲間語りはいつもとても軽妙で面白く、笑いのツボを押さえています。歌もそして関西訛りの標準語のように聞こえるその喋りも、合わせて「加川節」と呼べるものです。
ですが、何十回も聴いたライブなのに、良さんが自分の身内の事を語ったということは、私に関する限りは一度もありませんでした。
だから、亡くなられるまで山梨県北杜市に住まわれているということの他は、その家族構成も、既婚・未婚その他、何も知りませんでした。
公私を完全に分けるのが良さん流というものだったのでしょうか。
話が横道に逸れてしまいましたが、良さんの歌に歌われる男女の関係というものは、いつもとても特殊で面白いものでした。
これから世に出ようと歌作りに励んでおられる貴方様も、この男女の関係の有り様というものについて、洞察されてみることを是非お勧めします。
この歌は当初、アルバム「駒沢あたりで」の第一曲目に収録されています。これを聞いてみると、結構メロディアスなサウンドに仕上がっています。エレキの音をバックにしてなかなかいいアレンジです。
ただ、YouTubeには良さん自身のいくつかの生ギターの弾き語りライブ曲としても上がっています。でもそれは、メロディアスというよりも語りの曲として、趣はかなり違います。
アルバムとライブでは良さんの場合とても違います。というのは、良さんにとってアルバムはクリエーティブな作業であり、ライブは作り上げたものを一端壊しながら再構築する作業なのだと思います。
だから、良さんは同じ歌であっても歌うたびに違うのです。10回唄えば10回とも違う唄い方なのです。それはジャズのアドリブみたいな感覚なのでしょうか。そういう意味でも良さんは、最後まで歌う吟遊詩人でしたね。
まだまだ長く歌っていたかったことでしょう。(1947年)昭和22年生まれの加川良さん、骨髄性白血病に散ったのでした。2017年4月5日のことです。
今も、天国で歌っていることでしょう。先に天国で待っていた西岡恭蔵さんやその他大勢のお仲間さんたちとセッションでもしているのでしょうか。きっとそうだと思います。
■まとめると
思えば、団塊の世代(元祖ベビーブーム世代)は同時にビートルズ世代であり、また同時に全共闘運動世代でもあります。ビートルズという新しい音楽の洗礼を受けて音楽することを一番楽しんできた世代なのです。
そして、政治の季節の真ん中を全共闘運動世代としても駆け抜けたのでした。大学当局との闘い、ベトナム戦争反対運動、安保条約反対運動等々、ある意味ピュアな戦いでした。
1968・69年、全国で同時発生した大学紛争、その象徴的なものは東大安田講堂への籠城事件や日大紛争なのですが、歌にもなりました。
かぐや姫の「マキシーのために」は、東大紛争で安田講堂に立てこもった一人の女性のその後の自殺という悲劇をテーマにしたものです。
この歌詞を書いた喜多条忠さん自身、学生デモに明け暮れた日々のことを歌詞にしたものもあり、「神田川」がそうです。ある意味、政治離れをしてしまった若者たちには表現できない壮絶な人生なのでしょう。
でも、これからはまた違う未来が来るかもしれませんね。なにしろ、リアルに戦争が続いていますから。そして、同時に時代と男女関係は、これからもかなり違うものになっていくはずです。
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