これは、お尋ね者の画ではありません。

日本のロックの先駆けはこのアルバムだった
この写真は、1973年当時にリリースされたアルバム「風街ろまん」の裏表紙です。日本語というものがロックのリズムに果たしてうまく乗ることができるのか否か、という論議がこのころはまだあった時代です。
そこに、ジャパニーズロックを志向する4人組のハッピーエンドというグループがありました。その2枚目のアルバムであるこの作品、日本語のテーストがたっぷりなのに、よくソフトなロックに出来上がっています。
もしかしたら、これが日本のロックの誕生だったのかも知れません。この4人組のメンバーは細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂、松本隆 と今やいずれ劣らぬ大御所ですがグループ解散後も時代の先頭を走ってきた人たちです。
細野氏は後にYMO(78年~83年)でブレイクし、大瀧氏は後にアルバム「ロングバケーション」でブレイクしました。鈴木氏は後にティン・パン・アレーにもギターリストとして参加しながら、いろんな人のアルバム作りにも参加・アレンジして、松本氏は今や昭和歌謡の大御所作詞家として超大物です。
このアルバム、皆さんも一度は聞いておきたいものです。
曲の要素とは?
さて、今回の本題に入ります。曲の要素には、いろいろなものがあります。
・メロディー
・リズム
・アレンジ(イントロや間奏、どんな楽器を使うか)
・ハーモニー
・コーラス
・詞調・言葉・詩の境地・テーマ
・その他
など様々ですが、ここでは私の専門とする詞調・言葉・詞の境地やテーマに関わることに限定してみることにしましょう。そうすると以下のようなことになると思います。
私は、まず第一に楽曲(歌)というものにドラマ性があるかないかが大きな良し悪しの決め手となるものだと考えます。
曲を聴いて、その情景がありありと頭に浮かぶような表現は私たちが感動するときの第一の大条件です。
そこには、言葉によって想起されるドラマの映像(画)が聞く側にも送り手と同じようにイメージされることが必要で、曲の送り手と受け手の多くが同じ画を共有できることで完成するのです。
テレビ番組のプレパトでも俳句の夏井先生は、映像化することをとても重要視されますが、それと共通しています。わずか17文字での文芸である俳句でさえもそうなのですから、歌がそうでないはずがありません。
歌詞を言葉で紡ぐこととは、小説やドラマの中で使われる言葉の量よりもはるかに文字量が少ないわけですから、その言葉の選び方が重要になります。
言葉選びに関する例を少しだけ挙げてみましょう。
【抽象的で映像のない言葉は✖】
「奇跡」「未来」などの言葉はそれ自体抽象的な語句であり、その裏に映像はなく、単に耳障りがよいだけです。ですから、その言葉から何か画をイメージすることは難しく、人それぞれの認識はバラバラなので共有できません。
ここでいうダメ出しの意味は、取りあえず「メイクドラマ」のストーリーとして歌を作る際には「伝わらない」という意味で良くないということです。
【散文的なだけの表現✖】
自分の思いの丈を、話しかけ調にして多弁的に語るのは大抵の場合NGです。多くの場合には語り過ぎに陥り、もっと選び抜いた奥のある短い言葉に多くの意味を込めて語らせるほうがベターだと思います。
聞く側に「読み取らせる」「考えさせる」「感じさせる」「何かを想起させる」ことで曲の境地の奥へ誘い込めて、しかもそこで遊ばせる余地を残していることが、つまりは歌の奥行きというものです。
単に散文的に過ぎるということは、聞く側に映像が伝わらないだけでなく、事の顛末や思いの丈がベラベラと雑談のようにして語られてしまうので、人の話としては理解できたとしても感性には伝わらないことになります。
残念なことですが、平成以降に活動を始めた若い人たちの歌の中にはそのようなことがとても多いと思います。従って、まず例示していきたい多くの楽曲は70年代~80年代の歌が圧倒的に多いことと思います。それは、私が70年代の人間であることとだけでなく、直近30年間の曲は体系化がし難しい印象があるからです。
とは言え、おいおい私も勉強と研究をしていきますのでそのうちに、直近の歌も分析してみたいと思います。その上で古きも新しきも東一された同じ物差しで測っていくことで、ものの優劣や良し悪しについて語ってみたいと思います。
歌作りにおいては自分の思いをそのまま言葉にしても、それは他者であるBさん、Cさんには伝わりません。なぜなら他者であるBさん、Cさんはあなた自身ではなく別な人格と感性を持つ人だからです。
自分の思いを懸命に語りかければ、きっと伝わるはずだと思うのは錯覚です。だからこそ、具体的な画像を介して共有すべきなのです。それが表現ということの神髄であり同時に醍醐味でもあります。
例えば、一つの例として「ダイヤルまわして 手を止めた」(「恋に落ちて」のサビ部分)という短いフレーズで考えて見ましょう。
このたったこれだけの「動き」の表現ですが、送り手のAさんと受け手のB・C・D~~~さんのすべてが共有できます。なぜならダイヤルを回すという動作が画像を伴っているからです。しかも、その画像からは恋に落ちた女性の様々な心の動きまでも他者に伝わるのです。
ここでは、ダイヤルを回すという具体的なしかもちょっとした動きで表現したことで成功していることの見本でしょうか。
今では、電話をするのにダイヤルを回すという行為はありませんが、数字をプッシュするという行為に置き換えて考えてみることはできるでしょう。
要はできるだけ具体的なことや具体物を言葉として取り込むことで、表現に強さ(インパクト)と伝わりやすさを同時に持ち込むことができるということです。
このようなことは、テレビ番組の「プレパト」を見て私も勉強したことです。以上のようなことを踏まえて、以下のような基準を考えてみます。
解りやすく三つ基準を決めよう
できるだけ具体的に話してみます。
第一段 <歌は「メイクドラマ」だと心得るべし!>
もし貴方がシンガー・ソングライターを目指すならば、メロディーメーカーを目指すとともに、ストーリーメイカーになることを目指さなければならないと思います。
そしてその重要な要素が、初歩の段階では以下の三つです。
■1.「時間的奥行き」という物差
■2.「空間的広がり」という物差し
■3.「究極の言葉選び」という物差し
この入門講座の初めのテーマ(課題)として、作品のドラマ性の有無、そしてその出来栄えというものを、上の三つの要素を適宜絡めながらたくさんの例示を素材として進めて行きたいと思います。
以下、乞う御期待のほど!
なぜ、はじめにこのテーマを持ってきたのかと言いますと音楽、特に主に言語表現に関しては映画や小説、テレビドラマのような映像的な同質性があると思うからです。
音楽の送り手と聴き手がそのイメージを共有できれば、取りあえず両者の相互理解が最低限でも成立するからです。
身近な例として、例えば
「長い長い砂浜を 白い犬が走っていくよ」
という送り手の歌詞があったとします。
聞く側としては、狭い岩場の磯浜などは想像しないですむし、「長い長い」や「走っていく」の言葉から広く遠くまで続く砂浜と海を想像して、送り手や他の多くのリスナーとイメージ(画)を共有できます。
当然ですが、黒い犬は想像から除外されるでしょう。これは、メイクドラマにおける広い景観の空間的広がりについての共有です。これが映画であるならば、そういう画像がカメラワークのパーンとして映し出されるはずです。
続いて「同じ光景を 僕は12歳の冬にも見た」
と続くのだとしたら、この主人公が既に大人であり、数年~数十年の時間的隔たりの後に、この同じ場所に立っているという時間的奥行きが成立します。
その男性は、たまたま帰省したのか、それとも郷愁に誘われて思いを募らせてここに来たのか、或いは故郷にUターンしての新しい人生の第一歩をこの浜辺から始めたいのか。等々、ドラマの次なる展開が期待されるわけで、それにはどうしても時間的奥行きの概念がないと成立しません。
また、それと共にもう一つは、聞き手に想像の余地(余白)を残しておき、説明しすぎないと言うことも重要です。それは、想像して楽しむという快楽を聞き手に保障するためでもあります。
私が伝えたいのは大まかに言ってこのような事だと思います。
説明不足の点はお詫びします。
もちろん、「メイクドラマ」が創作活動のすべてではありませんが、取りあえず第一段はこれで考えて、しばらくは話を続けます。そうして話が一回りしたところで次の段階に行きたいと思います。
また、その後の段階としての様々な表現の方法について以下のようなことが考えられます。この通りに話が進むのかは別として、変更や新たなことが追加されたりすることもあります。
・曲のテーマ性とは?
・シュールな表現とは?
・耽美的な表現とは?
・韻を踏むとは?
・反戦歌
※ビロード革命と「ヘイ・ジュード」
・放送禁止歌談義
・ユーミン物語
・加川良ストーリー
・西岡恭蔵ストーリー
・ミュージシャン列伝
・こぼれ話
etc.etc
もし、こんな事も加えて欲しいとか、こんな話を提供しますとか参加精神の旺盛な方は、どうぞご教授くださいませ。相互性の広がりや、話題の広がりは歓迎です。
ここで、基準的な物差しを設定したいと思うのには理由があります。音楽、流行りには世代性や個人性の影響が強く、その人の好みや「好き」という感覚が音楽性に関する正確な判断や良し悪し観を狂わしてしまうからです。
「好き」=「素晴らしい」というのは多くの場合錯覚かも知れません。であるからこそ、客観的な物差しが必要なのです。同じ物差しで測って比べれば優劣の差が見える形で確認できます。
お互いが主観的な「好き」という感情だけで議論するならば険悪で不毛な論議にしかなりません。そんな無駄をなくしてまえに進むために基準を決めたいのです。
「好き」ならば、それでお互いに十分じゃないのと言い張る方もきっとおられるでしょう。その場合にはそれでいいと思うのですが、作詞や作曲、アレンジなどのクリエーティブな分野には向かない方であると思います。


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