L‘Arc~en~Ciel (ラルカンセル)を聴いてみた

歌詞の良し悪し

最近音楽を聴いていると、時々悩ましい事が起こる場合があります。
テレビで関ジャニの音楽番組があって、その日のテーマはL‘Arc~en~Ciel について語る番組のようでした。

何という曲かはわかりませんが、私にはその日本語の歌が聞きとれなかったのです。日本人の私なのに、日本語の語句、フレーズ共に聞き取れないのです。最近そんなことが時々あり、その度に暗澹たる思いに襲われてしまいます。

その昔、サザンオールスターズが「勝手にシンドバット」でテレビに登場してきたとき、司会の黒柳徹子さんは、目の前でのパフォーマンスであったにも関わらず「英語で歌っているものと思っていた」と後に述懐されていました。

桑田さんは確かに英語発音風に寄せた歌い方ではあったと思いますが、よく聞くと「いま何時?」とか「そうね だいたいね」など、日本語の言葉はすべて確かに聞き取ることができます。

なのに、このラルクさんの歌は一つの日本語の単語さえも私の耳には届かなかったのがショックでした。

「Honey」「Flower」の2曲を聴いてみたが、、、

関ジャニのテレビ番組のなかで、ラルクさんのメンバーにインタビューしている場面があり、そこで出てきた曲名が、「Honey」「Flower」の2曲だったので、取りあえず名刺代わりの代表曲かもと思い、さっそく聞いてみることにした。

歌詞を下手に載せちゃうとジャスラックの方からクレームがついたりして厄介な事になるといけないので、歌詞の全体が気になる方は、ここではそれぞれで歌詞検索をして確かめてみてください。

Honey について

一言に言えば、難解な歌詞でした。

基本的に私は「難解さ」は嫌いではありません。ただし、その難解さにも奥行が感じられてこそのことであります。

3連 → 4連 → 3連 → 4連 ~ と歌詞が展開していくのですが、最初の3連と次の4連が脈絡的にどう繋がっているのかが不明で手がかりがありません。

つまり、初めの3連にある壁に飾ってある景色の絵?(写真かも?)と、次の4連にある「あなた」の関係がつかめません。それだけでなく、絵の景色の中に「あなた」という対象が描かれているのか、いないのかもわかりません。

通常、「景色」という言葉に対して多くの人は「人物」を連想しません。ですから、Honeyの対象となる「あなた」は始めから行方不明です。そうなると聞き手は置いてきぼり状態です。

その絵?の中に「あなたが描かれている」と仮定してみましょう。となると、その絵の中にある「あなた」は遠く幼い頃から色褪せていたのですから、もう既に亡くなられている「あなた」なのか、あるいは、存命中だとしても随分ご年輩の「あなた」(おばさん?おばあさん?)であり、そんなに世代の違う対象に「Honey」と呼びかけることの妥当性を疑いたくなります。

「Honey」とは、通常は恋人や愛妻などに呼び掛ける際の文句ですよね。ですからシチュエーションそのものが破綻しているように思われます。

こういった破綻を回避するためには、初めの3連のフレーズで、「景色」という言葉ではなく、もっと具体的に書くべきです。例えば「白いドレスの少女」とか「花束を抱えた娘」とかであれば、少しだけHoneyに寄せられるかも知れません。

また、もっとベタで良ければ「モナリザの微笑み」とか「カルメンのまなざし」とかの表現を使えば、そこにHoneyの対象となる美女が立ち現れて無用な破綻は回避できます。私個人としては、「レティシア」というのはどうでしょうか。それらの女性像は時代を超えても尚、輝き続けている美女たち人物像だからです。
この場合、「色褪せた」の言葉選びではなく「永遠の輝き」のイメージを強調するべきだと思います。

次に、「かわいた風をからませ あなたを連れていくのさ」と続くのですが、どうもしっくりとしたイメージが湧きません。「かわいた風」のイメージは春か秋の「爽やかな風」か、「冬場の寒風」かでしょう。前者であれば、心地よい幸福な姿を連想しますし、後者であれば酷寒の殺伐とした厳しい風でしょうから悲惨すぎます。

「かわいた風」はこの場合どうもしっくりいかない気がします。風を絡ませてあなたを連れていくならむしろ湿った風のほうが絡みやすいように感じられます。人を連れ去るほど絡みつくには湿り気が必要に感じられるのは僕だけでしょうか?

次の連の「転がってゆく道で少しイカレタだけさ」や「深い痛み」なども、前後の脈絡から場面を読み取れません。タイトルのHoneyとはイメージがつながらないからです。こういった難解さ(訳の分からなさ)は、リスナーを置き去りにしてしまいます。私も聴いてみて?ばかりのフラストレーションが残りました。

自分が表現したつもりの伝えたかったこととは、もしかしたら、表現文言のスタイルをもっと単純化してシンプルにした方が、聴く人に伝わるのかもしれません。

例えば、「かわいた風をからませ あなたを連れていくのさ」の表現も「ぼくを一人 置き去りにして離れていくあなた」とした方が伝わりやすいと思います。

大切なことは、「伝わるのか、伝わらないのか」という問題を直視することです。もちろん説明的な散文調にしてしまうのは最悪なことですが、そこにこそ表現者の工夫のしどころがあるのです。

「Flower」について

この歌は、アレンジのギターメロディはなかなかのいい感じだったように思います。

さて歌詞の印象は、恋の日常を散文的に歌ったもので、取り立てての目新しさはない。多分詩的な表現を捨てて散文に走っているからどこにでもあるようなフレーズに落ち込んでしまうのだと思います。

もっと詩性を追求してみてはどうでしょうか? 例えば、
・「思ったよりも 夜露は冷たく 二人の声も震えていました」
・「真っ逆さまに 落ちてデザイヤー」
・「そっちのせいよ プレイバック プレイバック プレイバック」
・「ある日 踏切の向こうに君がいて、振り向いた君はもう大人の顔をしてるだろう」
これらは、それぞれ有名なフレーズだと思いますがいかがでしょうか?

1に散文詞を止めること。 2に表現を映像化すること。
取りあえずこれだけでも心掛けて作詞をしていくことをおススメします。

この「Flower」の歌詞は、どちらかというとダラダラとした散文です。映像を伴うべきベットの中での様子も何か気の抜けたビールのようにしゃっきり感がありません。単に恋煩いの男子が届かぬ思いを持て余してグズグズしているだけのような、ごくありふれた、どこにでもありそうな凡人発想の歌詞です。

「遠い日の昨日に~」以下のフレーズは、せっかくの時間的な奥行きを表現できるチャンスなのに、なにか歌詞の輝きがありません。おそらく、バックのギター音やメロディーに意識を持っていかれての乗りの良さみたいなものに流されてしまっているのではないだろうかと予測します。

ですがここでは、主に歌詞の良し悪しについての考察を旨としていますから、音の部分に翻弄されてはいけないと思います。

きっと恋する人間にとっては、何でもない、他者から見てどうでもよい日常的な恋への思いというものも大切なのだと思います。がしかし、こと「表現」というものは世界観というものが違っていてしかるべしなのです。

それには、他者(聞く側)との共有のための努力が必要です。一つは映像として共有できることであり、もう一つは究極の言葉選びを追求することです。そして、恋の歌にこだわらずとも何でも表現の題材は無数にあることを体言してみせることではないでしょうか。

参考までに、如何に西岡恭蔵氏の歌の歌い出しの部分だけ、いくつか紹介しておきます。
いずれもKUROさんの詞です。
・「説教なんてもうたくさんと 俺に向かって奴らが叫ぶ」(燃えるキングストン)
・「砂漠の切れ間から覗いてる街 モロッコ」(モロッコ)
・「アラブ諸国は火の海と テレビジョンが叫んでる」(聞こえるかい)
・「古い港町流れる 夕暮れの口笛」(アフリカの月)
・「バルセロナ発の汽車でアンダルシア抜けて 南の港町を目指してるよ二人は」(マラケシュ)

詳しくは説明しませんが、そのグローバルさが半端なくスゴイですよね。良ければYouTubeあたりで聞いてみるか、歌詞を検索してみるかされてみるといいでしょう。

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