1.言葉の(シーンとしての)場面化・ドラマ化(ストーリー化)の勧め
例えば思いつくままに、「夢」「約束」「奇跡」という言葉を歌詞に取り込むとしたらどうでしょう。これらの言葉は誰もが知っていて聞く機会のあるものの、それ自体に万人に共通する映像を伴っている表現ではありません。
単にポシティブな漠然とした感じがするというだけで、歌詞に持ってこい的なものとして好まれているのではないかと思います。しかし、本来は映像がない言葉なので、それは他者にイメージとしてとても伝わり難いということになります。
でも、もしどうしてもそれを使いたいというならば、もっと限定化(焦点化)が必要となります。例えば、「昨日見た、空を飛ぶ夢」とか「十年前の君との約束」とか、そんな具合に修飾語がつくことで少し実像化してリアリティが増すことになります。
もちろん、前提としては予め意識的にこれら映像のない言葉は避けて少なくすることをお勧めしたい。
2.出会いは奇跡であるべきか
ある歌に「君と出会った奇跡がこの胸に溢れてる~」というフレーズがあります。通常、人と人との出会いは「奇跡」ではなく「偶然」の出来事であって奇跡と呼ぶにはふさわしくないと私は思います。
男女の出会いを「奇跡」だと錯覚する向きは確かに多いかもしれませんが、むしろ人の多くは恋愛の対象となる偶然の出会いを求めてさ迷っている動物であると規定した方がはるかに的を射ていて面白いと思います。
「出会い」=「奇跡」としたときに、その背後に男から女に対する媚びのようなものが見え隠れしていて私は嫌いです。だからそれは「偶然」という概念で十分ではないでしょうか。「偶然」こそ素晴らしいハプニングであると理解したいものであります。
「偶然」とは人生において様々なターニングポイントやチャンスとしてその後の生活を規定することがままあります。恋愛だけでなく、就職や転職・転居なども偶然性は大いに作用します。
どの会社に応募するか、どの不動産屋に相談するかとか、人生においてかなりの部分が偶然任せになっています。それだけでなく、フラッと立ち寄ったレストランや定食屋、バー等々、その後の常連の始まりとなったり、たまたま目にしたテレビCMやラジオニュースなどがキーになったりすることもあります。
もちろん、ネット上の様々な情報も然りです。
そういう意味で、
・「あの時、あの場所で君がハンカチを落とさなかったら、、、」
・「交差点で君のハイヒールのかかとが折れてつまずかなかったら、、、」
・「あの日、その店に傘を忘れなかったら、、」
等々、男女の出会う偶然は人生においての充分にウェルカムな出来事として表現にもフレーズとして取り入れられるかもしれない。
事程左様に、出会いを「奇跡」や「運命」とまでシンボル化するよりも、もっと現実的でリアルな場面の映像化やドラマ化を考える方が百倍面白いと思います。ユーミン曰く、3つの脳内カメラで出来事を追うような表現をしているとのことですから、彼女が映像としての言語表現を常に目指していることが解ります。
■できるだけ散文的な表現を避ける
歌詞としての表現が、個人的な思いや映像のない散文的表現の羅列になったりしないことが大切です。
ユーミンの歌詞の表現に
「いつか君と行った映画がまたくる」(「いちご白書をもう一度」)というフレーズではじまる曲があります。一見、とても散文のように聞こえるこの歌ですが実は背景の世界観がスゴイのです。
「いちご白書」という映画のアイテムを持ち込んだところに、実は強めの意味が込められているのです。その映画は、1968年アメリカ「コロンビア大学」における実際の学生紛争をテーマに描かれたものです。
映画化が70年9月ですから、異例の速さでしょうか。実は68年~69年という時代は、パリ大学の学生運動や日本でも全国で大学紛争が吹き荒れていた時で、世界同時的な感があります。この時期、学生運動に参加したり集会に出たりしたことのある若者はきっと多いことでしょう。
そのように、映画の状況と同じような想いや経験を重ね合わせるようにして、この歌を聴いたという人たちは、歌に登場する「僕」が、自分の参加した学生運動に挫折感を秘めていて、そうでありながら、生きるために長髪を短く切って就職していく自分について、「もう若くないさと 君に言い訳したね」と述懐しているところなどぐっとくるのではないでしょうか。
何か、表現の一部でも聴く人(自分)の経験の一端をカスっているだけで、自分の身に引き付けて聴いてしまうからです。
ユーミンは、この時代の空気感や移り変わりをよく理解していて、やがて曲中の「彼」が来たるべき高度経済成長時代の企業戦士としてモーレツ社員に変貌していくことも見ていたのでしょう。
来たるべき時代はまさに「24時間働けますか」のモーレツ時代の幕開けでありました。その時代の転換点に学生運動という権力への反発と片や彼女との恋と切ない別れという個人的なドラマが、ほろ苦い二重のストーリーとなって重ね合わされているのが実はこの歌の真骨頂なのです。
このように散文的に見えながら、実は時代の叙事的な局面とプライベートな出来事の重ね合わせの妙は、ユーミンの天才的な技ですね。
■具体物や場所、地名、動作などは表現に効果的である
「ワーゲン」、「アメリカの貨物船」(冬のリヴィエラ)、「青いセリカ」(よそ行き顔で)、「公園の噴水」(駒沢あたりで)、「三浦岬」(海を見ていた午後)等々、具体的な表現は名曲の中で効果的な使い方が成されている。
このように饒舌な言葉選びには及ばないとしても、例えば「白い子犬」と表現したとします。犬という具体物はイメージとして聴く側と送り手の間で共有されやすいものです。だれも白い小犬と聞いて「黒い犬」を想起したりはしないし、少しヒネリを加えて「白い秋田犬」とか「シーズーの~~」とかの表現としての展開もあり得ることでしょう。
するとさらに具体的になる。一般的に多くない犬種の犬であることにも個性を込める技として可能だろうし意味はあります。
別の例では「白い子犬を抱き上げる 君はちょっぴり幼くみえる」(風の街)
これは「抱き上げる」という動作が加わることで、静止画が動画へと変わる効果を生んでいます。動作が「幼く見える」という印象を誘っているという動きもあります。
一方、良くない表現としては、ただ映像のない自分の思いだけを羅列するというやり方です。今時それが実に多いのはとても残念なことです。
■散文的に過ぎる説明的な部分は出来るだけそぎ落とす
テレビ番組「プレバト」の俳句の部門での一場面を紹介します。
かなり段位の高い方の俳句に「 初みくじ 吉凶よりも 腹の虫 」という句が提出されました。このとき夏井先生は「よりも」という語句に注目されました。
「よりも」が散文的な説明になってしまっているという指摘です。つまり、「初詣に行き、おみくじを引きました。でもお腹がすいていて、おみくじの結果よりも何か食べたい気持ちの方が勝っていましたよ。」という状況説明の散文表現になっていることへのNG査定がなされたのでした。
つまり、表現内容の底が浅くなってしまいがちなのが散文表現の良くないところです。俳句では「散文的」「比喩的」表現が低評価の要因となるもっとも多いパターンです。歌詞の世界でも、この概念は成り立ちます。
それらは多くの人がハマりやすい落とし穴です。できるだけ無駄な言葉はそぎ落とし、映像的表現、動きのある表現、俗に言うパワーワード(言葉の背後にある含意量の多い固有名詞など)などを用いてリズムやメロディーに馴染みやすい歌詞を考えていくようにしてみませんか。
最大の注意点は「思い」はそのまま歌詞にはしないことです。もしかしたら、いや多分、あなたの「思い」には、なんの映像も、色も動きもないことがほとんどですから、共有言語としては伝わらないと思ってください。そこを踏まえましょう。
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