歌作りにおける【究極の言葉選びとは】

シュールな表現

作詞とは、詩的なものの追求でもあります。
ここではそれにふさわしい作品を紹介してみましょう。

冬のサナトリウム

「冬のサナトリウム」
 byあがた森魚
  ほんの少しだけど 
  日が差しはじめた
  雪灯り 誘蛾灯  

  誰が来るもんか 独人

  荒れ野から山径へ 
  邂逅はまぼろし
  弄びし夏もや   

  何が見えたんだろか 
  抱擁て

  十九歳十月 窓から旅立ち 
  壁でザビエルも
  ベットで千代紙も 

  弔いた

  ●「サナトリウム」とは主に結核の療養所のことです
※「誘蛾灯」(ゆうがとう)、「独人」(ひとり)、「山径」(やまみち)
「邂逅」(であい)、「抱擁て」(だいて)

貴方はこの曲をご存知だろうか? (期待はしていません)
この短い詞ですが、私の頭の引き出しのうち、頻繁に開け閉めするメインのものではなく、サブ的な引き出しにしまっておいたいわば変化球的なものです。

あがた森魚氏は、かつて70年代には昭和初期のイメージをこよなく愛し、追い求めた人です。そこで使われる言葉が一つひとつノスタルジックで耽美的、短く、しかも選び抜かれているのがお分かりでしょうか。

まだうら若い薄幸の少女が結核という不治の病に伏し、人里離れたサナトリウムの部屋で、わずかな望みを胸に抱きながら亡くなるというドラマが見えます。

その死は、「窓から旅立ち…」と間接的にしか語られないそのこらえ性こそが、このドラマをなおさら物哀しく耽美的に仕上げている。
一つひとつの言葉を今一度噛みしめて見てください。具体的に表現する方が絶対にいい場合と、ここでの「死の表現」のように間接的に表現したほうがいい場合というように、究極を求めて推敲の末にこのような表現が最終的に選択されたのだと思います。

「わずかな希望」、「孤独」、「出会いと恋」、「死」、「哀しみ」等々の概念が過不足なく描かれています。それらが単なる言葉遊びに終わらないためには、何を伝えたいのかという確かなテーマ性が必要です。

あがた森魚氏は、どちらかと言えば透明な声ではなく、ややしゃがれた声質でこれを唄うのです。プチヒットした「赤色エレジー」の目指した時代背景も同じ昭和初期という時代でしょう。

清怨夜曲/

もう一つ、あがた森魚さんの曲を紹介します。

 汝が綺髪 かき抱き 
 吾は綺夢 見果てぬとも
 添うて踊ろ 僕と一緒 

 君は仕合わせに眠くなれ
 素敵よ夜の曲片 

 あなたの肩でるりるら踊れたら
 (以下省略)

※「曲片」(うたかた)

 

この歌詞の書き出しは、ダブルミーニング(二重の意味)の仕立てに

なっていることがお分かりでしょうか。
「汝が綺髪」は「長き髪」、「吾は綺夢」は「淡き夢」という二重の意味が込められていることが一目瞭然です。ここでも究極の言葉選びによる昭和初期の耽美的なイメージを追求していることがわかります。

■井上陽水の陰謀 「たいくつ」

着想(モチーフ)として、人が思いつかない物に焦点化する技

 アリが死んでいる  角砂糖のそばで
 笑いたい気もする  当たり前すぎて

(以下省略)

 ●曲の冒頭部分だけですが

この曲、井上陽水氏の初期の曲です。

おそらく、テーブルの上にあるであろう角砂糖のそばでアリが死んでいる。それはたまたまであり、だれもが取り立てて気にするような大きな出来事ではなく、感動的でも、情緒的でもない。むしろ取るに足らない日常の小さな一コマにすぎない。

「愛だ。」「恋だ。」と歌っていたい人から見れば、誰もそんなことが歌のテーマになるなんて思いもよらないはずだ。そこにわざわざ目を付けて表現のフィールドにまで引っ張り込もうとするのが、策士である彼のストイックな陽水ワールドである。それは発想の転換という手法であります。

彼はそうしておいて、他者に追随を許さない、自分の類稀な感性に酔いしれながら、その言葉を嚙みしめるような風情で歌い上げる。一歩間違えば異常体質の表現魔なのかも知れません。(※これはあくまでも賞賛の言葉です。)

陽水氏は、「ほら、まさかこんな表現は、貴方にはできないでしょう。」とでも言いた気です。そうやって、愉悦の極に浸るのです。


テレビ番組のプレパトで、村上氏が自分の周り1m以内にある素材を題材にして句を読んで見せるという手法に酔いしれるということにも通ずるものでしょうか。村上氏もそれなりにナルシストなのでしょう。

ところで陽水さん、この時期はこのような歌が多かったですよ。
「冷たい部屋の世界地図」
「ゼンマイじかけのカブト虫」

など、

これらにも発揮されていると言えるでしょう。

氷の世界

この詞はもちろん恋や愛の歌ではなく、多数派マジョリティの好むようなものではなく、聴衆の期待を敢えて裏切っています。

では、何かの主張を含むような人生歌なのかというとそうでもありません。もちろん、反戦歌やコミックソングではありません。

窓の外ではリンゴ売り 
声をからしてリンゴ売り
きっと誰かがふざけて
リンゴ売りのまねをしているだけなんだろう

ぼくのテレビは寒さで画期的な色になり
とても醜いあの娘を
グッと魅力的な娘にしてすぐ消えた

今年の寒さは記録的なもの
こごえてしまうよ
毎日 吹雪 吹雪 氷の世界

(以下省略)

陽水さん、ただただ狙ったのは「ありきたりのテースト」表現は絶対にイヤだという精神に裏打ちされているものとみています。そのためにわざわざナンセンスストーリー(のようなもの)を採用したのだと思います。

陽水さん、当時は彼のナンセンスな表現にどれだけファンが付いて来るのか、ついてこれるのかを試した(実験した)のだと私は見ています。

「リンゴ売り」のことも、「テレビ」のこともあり得ないような、つまらない作りでかした事であり、通常は「氷の世界」もあり得ないことです。

しかも、リンゴ売りだからとて「赤」を感じるわけでなく、「テレビ」だからとてドラマやバラェティの楽しさ・面白さはなく、「氷の世界」からは色彩のない透明なイメージくらいが伝わる程度です。
「恋」や「愛」、「夢」や「奇跡」、「ふるさと」などの10人中10人が、知らず知らずのうちに求めてしまうようなありきたりの「ことば」を敢えて避けています。

なのに、こんなナンセンスな歌詞の歌がなぜ爆発的に売れたのか?

それは、きっと陽水さんの策略とトリックにみんながはまったのだと私は考えています。まさに、「ナンセンスを歌にすること」こそこの時の彼の求めるテーマだったのだと思います。

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