少年時代 井上陽水
この歌を紹介できないのが残念です。
皆さん、それぞれに歌詞を検索して見てください。
この歌のイメージ戦略
この歌は、まったりとした曲想とテンポで歌われ、「夏のイメージ」をそのまま「少年時代」のタイトルとかぶせてあります。陽水氏の少年時代の記憶やイメージが夏の思い出とクロスしているからかもしれません。
きっと日本全国で、もれなくそのような夏休み体験をしている人たちをターゲットにしているのでしょう。しかも、毎年同じ体験者が増殖していく中で、この歌の年代を越えた存在性を誇示できるとの目論見がありますね。
夏の青空、夏祭り、花火と三種の神器のような黄金体験が多くの人たちに潜在意識として塗りこめられている日本人の原風景。それに敢えてアプローチしてくすぐり倒すというのは、とても陽水氏らしい周到な計算です。
この歌の言葉選びは、「夏」「青空」「夢」など、とてもありきたりのオリジナル性に乏しい言葉を多用してあります。そして、もう一つの特徴は陽水流の造語戦略です。
詳しい言葉の分析
① ありきたりの言葉群は次のように出てきます。
夏(2回) 青空 夢(3回) 夜 夏祭り 八月(2回) 私の心(2回) 星屑
② また、文学的な言葉はこのように出てきます
「宵かがり」「胸のたかなりに合わせて」「長い影が夜に延びて」
※「夏祭り宵かがり」は、祭り日の前夜のことでしょうか。
③ 陽水流「造語」
「風あざみ」(2回)「夏模様」(3回)「夢花火」(2回)
夏のイメージとなる言葉の印象を強める働きが成功しています。造語ですから、聴く人は「何だそれ?」と前のめりになります。
これまでも陽水氏は、「心もよう」というタイトルでヒットさせた曲があります。他にもあるかもしれません。いずれにしても、「◎◎もよう」という造語戦略、これは確信犯的戦略です。
さらに詳しく見て見ましょう。
「風あざみ」=「風」+「あざみ」
「風」とは、歌でよく使われますが、とても安易に誰でも使うもので、それ自体は大した風景は持ちません。ですがそれを「風あざみ」と造語にすることで、「あさみ」という具体物の印象の強さに引かれて印象を増します。
「夏」+「模様」=「夏模様」
「夏模様」とはどんなイメージでしょうか。暑苦しく、過酷な日本の夏に対するイメージをなにか爽やかなイメージに置き換えることを狙ったものでしょうか。
春模様ではなく、秋模様でもなく、冬模様でもありません。もともと春には「新緑」のイメージがあります。秋には「落ち葉」や「紅葉の色」のイメージがあります。また冬には、「雪」の白いイメージがあります。陽水氏は残る「夏」という季節にも共通の「夏模様」のイメージを確立したいのでしょうか。
「夢」+「花火」=「夢花火」
「夢」と言う言葉はだれでも知っていて、好ましい概念としてよく使われます。でも歌詞の中ではとても曖昧なものであり、それ自体具体的なイメージを持たないものです。なぜならば、夢は個々人によって千差万別だからです。
つまり、「夢」という言葉では多くの人にはイメージが共有されにくいものです。
そこで、陽水氏は考えました。「花火」という語句との合体造語という方法です。「花火」には多くの人の具体的な映像的イメージがあります。そこに、新しい強いイメージの新造語が誕生したのです。
私は、別な記事で「サクラ」考として、日本人の潜在意識と感性に敢えて働きかける収益狙いの定石としての「サクラ」歌を批判しましたが、ここではさらに新造語方式の饒舌さには戦略から陰謀への進化を感じます。
さすが、陽水氏です。
④ 不可解な表現?
・「誰のあこがれにさまよう」
不思議でしょう。例えば貴方が、だれか見知らぬ他人様の「あこがれ」にあえて、共有してその彷徨いを楽しむようなことをしてみたいですか?
あなたのよく知る特定のだれかではなく、そして貴方が信奉するあこがれの人物の夢ということでもありません。
・「呼びかけたままで」、「思い出のあとさき」(2回)
呼びかけたままで
夢はつまり
思い出のあとさき
陽水氏にとっては、「夢」と「思い出」が一つのライン上にあるということでしょうか。「夢の多くは思い出とクロスしている」、「思い出の多くは夢と判別ができにくい」のような感じの経験からきているのでしょうか。
⑤ 陽水氏の表現法は、私がこれまで推奨してきた法則である「時間的奥行」や「空間的広がり」、「ドラマメイク」のやり方とは随分異なっています。時間軸と空間軸の両方を、敢えてねじ曲げているように感じられてなりません。
「ドラマメイク」に関するその特徴は、本人の立ち位置がとてもニュートラルで、彼自身は何を表現するにしても自分はそこにいない、薄い影のようにしていつも安全な場所にいて高みの見物をしている、そんな感じがします。
少年時代を歌うのにも、どこか濃密な時間の奥行きは感じられないニュートラルさがあります。また、名曲「傘がない」で、歌う深刻な恋に絡む歌の内容であっても、彼は自分の発声する言葉の語感とその音を噛みしめるかのように歌い、どこか個人的濃密経験のようなものからはニュートラルな立ち位置に避難している感じがします。
どんな歌も、陽水氏は歌う時の語感を楽しむことを専らとしている。いや、歌う時だけでなく単なる会話であってもそうかもしれないと思えるほどです。また、特にLiveでは語句の末尾の部分は敢えてデフォルメ調に唄われます。それも、語調を楽しみ、確かめるかのように。
陽水氏における「あこがれ」考
陽水氏は、ファーストアルバム「断絶」で「あこがれ」という歌を歌っています。
「あこがれ」
さみしい時は男がわかる
笑顔で隠す男の涙
男は一人旅するものだ
荒野をめざし旅するものだ
ラララ‥‥
これが男の姿なら
私のつい あこがれてしまう女は清くやさしく生きて
電車にのれば座席をゆずり
悲しい歌が聞こえてきたら
ほろりと涙流してしまう
ラララ‥…
これが女の姿なら
私もつい あこがれてしまう
一番のフレーズのかたまりは、男性のしかもステレオタイプのタフな男性像について唄われています。
二番のフレーズのかたまりは、女性のこちらも、ステレオタイプのやさしい女性について唄われています。
歌い手である陽水氏は、男性として歌っているのか、女性として歌っているのかが解りません。しかも、「私もつい あこがれてしまう」からは、「本来はそんな絵にかいた餅のような男性も女性も存在しないはずなのに、もしそんなことがあるとしたら、ついあこがれてしまう。」という形に見えます。
基本的に、陽水氏は「あこがれるような存在」に対して、元々、非常に懐疑的であると私には思えます。そう思えば「誰のあこがれにさまよう」というこの不思議な訳のかからない表現にも納得できるような気がします。元々ある懐疑心の裏返しではないかと。


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