一度、加藤和彦という才能に触れてみて損はない

ミュージシャン列伝

「帰って来たヨッパライ」というコミックソング

加藤和彦氏、ウィキペディア等によると1947年生まれ、2009年10月16日(62歳)自殺により死去とあります。

フォーク・クルセダーズ(1965年結成)のアマ時代から、1967年~1968年に実験音楽的な「帰ってきたヨッパライ」が異常なほどのブレイクとなり、その天才肌のミュージシャンがその後辿った音楽の軌跡はとても興味あるものです。

「帰って来たヨッパライ」がヒットした当時、ラジオはもとより、街を歩けば何処からともなくこの不思議な歌が聴こえてきたものです。

昔はそんな時代でした。ヒットする歌は街の繁華街でよく聞こえたものです。半ば強制的に副流煙のようにして聞かされたものです。でもそれが時代の変化や流れをよく映し出していたという面もあります。

「帰って来たヨッパライ」は始めにスローで歌ったものをテープの高速回転による甲高い声をベースにして、あとで速度を落とし、途中の神様の声と称される通常速度の語り部分をオーバーダビングしてあると説明がされています。

一説によるとビートルズの実験的アルバムにも影響を受けているとのことです。これが、今では放送禁止となっていると言いますから、変な世の中になってしまったのでしょうか。

京都市伏見区生まれで、神奈川県・東京育ちの加藤和彦氏、高校卒業後、龍谷大学(京都)に進み、アマチュアグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」をはじめる。その折り、雑誌「メンズ・クラブ」でメンバー募集したところ北山修氏(作詞多数)が妹の自転車でやってきたとか。

初期メンバーは、加藤和彦・北山修・平沼義男・井村幹雄・芦田雅喜
(プロデビュー時に、はしだのりひこ加入)

1967年グループの解散記念として自費アルバム「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ」の制作(200枚)を行う。12曲を入れるために曲数が足りず、遊びで作った「帰って来たヨッパライ」をその中に加えたとのこと。

・もちろん、売れるようなこともなく、ラジオ局に配ったりしたといいます。それがラジオ関西かどこかが流したところ、リクエストが殺到して、注目が集まり彼らのプロデビューのきっかけになったようです。「あの、変な歌はいったいなんじゃぁ?」というものです。

2枚目のシングル予定の「イムジン河」は放送禁止との関係で発売中止となっています。

加藤和彦の活動の概要

・1960年代後半:フォーク・クルセダーズ(愛称フォークル)のブレイク 「帰って来たヨッパライ」「イムジン河」「悲しくてやりきれない」

・1970年代:「あの素晴らしい愛をもう一度」「白い色は恋人の色」
サディスティック・ミカ・バンド(ロック)結成、「タイムマシンにお願い」、セカンドアルバム「黒船」等

・1977年:作詞家 安井かずみと再婚

・1980年代:映画「だいじょうぶマイ・フレンド」村上龍制作の音楽監督や舞台音楽の制作活動。 また、ソロ・アルバム「あの頃、マリー・ローランサン」リリース等。

・1990年代:スーパー歌舞伎の音楽

いろいろな年代を通して、色々な歌手等への曲の提供、アルバムのプロデュース、アレンジなどが数限りなくあり、その多さに改めてびっくりしました。

驚くなかれそれらは、アカサタナ順に分類されていました。

坂崎幸之助「お台場フォーク村への出演」

フォークの生き字引的な存在である坂崎幸之助氏のお台場フォーク村に加藤和彦氏が出演した時の動画がYouTubeにあります。その中では、フォークル結成時の逸話や、「帰って来たヨッパライ」の作られた顛末などが語られています。何れも笑えます。

この当時の現象は、とてもセンセーショナルなもので、後に南こうせつ氏は、この時のことを称して、「何をしてもいいんだと思えるような、蓋の取れたような感じだった。」と述懐しています。

老婆心ながら「蓋」とは、文脈からして権威的な押さえつけのようなものという意味ですね。確かにこの後に、破天荒なコミカルソングがいくつも続いたのは、やはり影響があったからだと推測できます。

幸之助の部屋②/加藤和彦★☆BSフォーク大全集5(1996年)

吉田拓郎氏が語る当時のこと

吉田拓郎氏が自らのセカンドアルバム「人間なんて」の収録時のことを、松任谷正隆氏との対談で語っていた。

吉田氏は、1stアルバム「青春の歌」のアレンジ関係が気に入らず、もっといいアレンジによるアルバム制作のために加藤和彦氏に相談をしたのだそうだ。

その時に加藤氏が集めたミュージシャンの一人に若干まだ二十歳の松任谷氏が含まれていたとのこと。

そのアルバムには「結婚しようよ」など、吉田氏のブレイク曲が含まれていて、その収録ではたまたまそばにあった椅子を叩いたなど面白いエピソードは、先の坂崎幸之助「お台場フォーク村」(YouTube)の中で加藤氏本人から語られていた。

吉田氏か断言するには、加藤和彦、松任谷正隆、石川鷹彦の三氏は特別な逸材であるという。スタジオアルバムのプロデュースやアレンジがいかに重要かということを裏付ける話である。

サディスティック・ミカ・バンドについて少々

バンド名は、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「プラスティック・オノ・バンド」をもじったものである。

アルバム

1stアルバム:「サディスティック・ミカ・バンド」(1972年)
サイクリング・ブギ他。同時にイギリスでもリリース。
※当初、日本ではたいして売れなかったが、イギリス(特にロンドン)で評判となり、逆輸入の形で日本でも評価されるようになった。

2ndアルバム:「黒船」タイムマシンにお願い他
これは、1stアルバムを聴いたイギリスの音楽プロデューサー、クリス・トーマス(当時ビートルズやピンク・フロイトを手掛けたことで有名)から話があり、「黒船」をリリース。

3rdアルバム:「HOT! MENU」リリース(1975年)
同時にミカ氏との離婚、およびバンド解散。

4thアルバム:「天晴」
5thアルバム:「NARKISSOS」ボーカル、木村カエラ

解散後

このバンドは、加藤和彦氏の離婚により、解散の憂き目に遭ったものの、その後も新たにボーカルに迎えながら3度の再結成が行われた。

■主なメンバー:
◎初代メンバーは、加藤和彦、加藤ミカ、角田ひろ(ドラムス)、高中正義(リードギター)

◎角田ひろ(つのだひろ)氏が、自らのバンド結成のために抜けた後、大口広司が入り、その後、高橋幸宏氏(後のY・M・O)が参加。さらに、小原礼氏(ベース)も参加。

◎1985年、1989年(ボーカルに桐島かれん)一時再結成。
◎1992年「Sadistic Yuming Band」
参加メンバー、松任谷由実、坂本龍一、小田和正、財津和夫 他

最後に

加藤和彦氏は、アマチュア時代から一貫して常に新しい試みを追求していく天才肌の人物で、同じことの退屈な繰り返しを嫌っていたと言われます。

やりたいことをやり切った感が、どれほどあったのかは分かりませんが、晩年はうつ病に苦しむ中での自死の選択だったようです。一般向けの遺書は公開されているようです。

他にも、北山修氏宛てなど、いくつかの遺書があったのでしょうか?(未確認ですが)

皆さん、是非この天才肌のアーティストの一端触れてみることにをおススメします。

タイムマシンにお願い
アルバムバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=b8ATGykcyYg

ライブバージョン(ボーカル:木村カエラ)


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