Glory Hallelujah(グローリーハレルヤ)は、ステージの違う高位の楽曲

曲のテーマ性

西岡恭蔵氏の晩年の秀作「Glory Hallelujah(グローリーハレルヤ)」は、そんじょそこらの歌とは、次元の違う高みにある高貴な名曲です。にもかかわらず、決して大味に流れず誰の心にも優しく寄り添うような、身近ささえも兼ね備えて私たちを包み込んでくれる歌です。

まず、歌詞を読んでみてください。

Glory Hallelujah(作詞・作曲:西岡恭蔵)
G    Bm  C    G
Glory Glory Hallelujah 愛は生きる事
Am Em    Am/c     D7
私が私で ある事を願いながら
G    Bm  C     G
心の中にある 神様の言葉が
Am  Em     Am/c      G・C・G・D7
祈りの唄になり あなたに届くように

(Refrain)
Glory Glory Hallelujah 愛は生きる事
私が私で ある事を願いながら
Glory Glory Hallelujah 愛は唄う事
あなたがあなたで ある事を願いながら

唄おう神様が 導くままに
両手を広げて 輝きの時を求め
きっとここにある 唄う喜びが
希望の波になり あなたに届くように

耳を澄ませば 微かに響く
遥かなあの町で 唄う人達の声が
私もあなたも 一人じゃないと
共に生きている 確かなあの歌声が

(Refrain)

Glory Glory Hallelujah Glory Glory Hallelujah
Glory Glory Hallelujah Oh Glory Glory Glory Hallelujah
Glory Glory Hallelujah Glory Glory Hallelujah
Glory Glory Hallelujah Oh Glory Glory Glory Hallelujah

この歌ができた背景

聞くところに寄りますと、晩年の恭蔵さんは躁うつ病に苛まれながらもLive活動や創作活動に邁進されていたそうです。特に、この曲の入っているアルバムは、最愛の奥様であるKUROさんが病気で亡くなられて、その失意の中で作られたものです。

ですから、アルバム名が「Farewell Song」という追悼の意味なのは納得がいきます。しかし、私には、もう一つの意味があると思えてなりません。それは、恭蔵さんからKUROさんへの永遠のラブソングであると思えるのです。

この冒頭のGlory Hallelujahももちろんそうですが、ここに収められたすべての曲がラブソングだと思います。夫婦愛、子どもたちへの愛、人間愛 等々です。

聞くところでは、恭蔵さんの魂の眠るお墓は、故郷の三重県志摩で海の見える高台にあるとかで埋葬される時、みんなでこの歌を歌いながら行進したのだそうです。

歌詞の分析

出だしのGlory Hallelujahの言葉は、ゴスペルを感じさせる乗りであります。「ハレルヤ」が「神を讃える」という意味のようですが、これはポップスとしての唄ですから、宗教歌ではありません。

恭蔵さんの人生の中では、「愛」「生きる事」、そして「唄う事」は常に一体的で不可分な関係にあるものだったのでしょう。奥様や子ともたちを愛し、歌を作り、唄うというミュージシャンとしての長い人生を、純粋にしくしくと送ってこられたそのままの生き方が素直に語られているのでしょうか。私にはそう思えます。

私が私で ある事を願いながら
あなたがあなたで ある事を願いながら

これは、自分の望む生き方に忠実に生きていることの証のようなものでしょうか。「自己肯定感」という言葉に置き換えることもできます。とても王道なまっすぐな歌ですね。

ただ、王道でダイナミックな歌を創作するときに注意しなければいけないのは、「決して大味に流れてはいけない」という点です。「わたし」と「あなた」と「他者」の存在がバランスよく配置されている点が上手くカバーしているのだと思います。

比較して申し訳ないのですが、谷村新司の昴に見る様に
「我は行く蒼白き頬のままで」
「我は行く さらば昴よ」
では、あまりに大味に流れていると思います。

「神様の言葉」も「心の中にある」という言葉が、それぞれの個人の中にあるものとして歌うことで、曲が大味に流れることから救っています。そのことが、神様のための宗教歌になってしまうことからも、回避できています。

ビートルズの「Let it be」にも神様が登場しますが、これは恭蔵さん版のLet it be だと考えるととても納得がいくと思います。皆さんもこれを一緒に唄っていきましょう。合唱でもして。





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