ぼやき系とあって、ムムムっと私のアンテナに何か感知するものがあり、スマホで聞いてみた。ぼやき系というだけあり、歌詞はかなり荒れている感じです。作風と言えば、昔はこんなんも居たかも知らないガナリ系の売れないフォークシンガー的な感じですか。
この時代お利口さん系の歌しか許されないような時代の雰囲気の中にあって、汚れ系の歌もコミカルソングも今や窒息状態の絶滅危惧種となったような現在にあって、希少価値という意味での価値はあるかも知れない。
取りあえず、こんな歌詞の歌です。
「声」 岡室友佳子;詞・曲
普通にしてただけなのに 優等生の肩書き
いつの間にか着せられていた
少しでも期待に応えようと
何だって ちゃんとした
不安と戦いながら ずっと
私の歌う声を聴いて
きれいな声だねと言った
きれいな声なだけだねと言った
どこにでもいる感じ
特別なんて一つもない
何度も自分を嫌いになった
何を知ってるって言うの
何が分かるって言うの
心の中の声はいつも
私だってがらがらの声で
くしゃくしゃの顔で
ふざけんなって バカヤローって
大好きだって歌いてぇんだよ
曝け出して 叫びまくって
似合ってねえって 笑われたって
ありがとうなって そうやって 歌いてぇんだよ
(以下省略)
分析と評価
出だしの6行のフレーズのかたまりは、高校時代の記憶(経験)が下敷きになっていて、この歌詞があると見ました。人が自分を見る目と、自分が自分らしく生きられないそのギャップで自問自答し、苦しむ姿があります。
人から言われた自分の歌への辛辣な評価に打ちのめされたり、本心はバカヤローと叫びたい気持ちを持て余している、精神衛生上あまり良いといえる状態ではなさそうです。これも一つの表現として、共感を呼ぶ部分もあるかも知れません。
何を知ってるって言うの
何が分かるって言うの
この叫びたい気持ち、往々にしてあり得る感じで理解も一定の共感もできます。
◆しかし、ここから先が本題です。
この歌には、同時に致命的な欠陥もあります。
その1:あまりにも字数が多すぎるのと、言葉の流れに「荒れ感」がある。
例えば、
私の歌う声を聴いて
→ あなたって
きれいな声だねと言った
→ きれいな声ね
きれいな声なだけだねと言った
→ でも それだけ
どこにでもいる感じ
→ どこにでもある感じ
こんな風に短くすっきりと無駄な言葉を落としてみても、言ってることの内容はほぼ同じです。聴く側は、その分ノイジーな響きが弱まって、意味が滑らかに身体に入りやすくなる。そのように修正したほうがいいと思いませんか。
また、次のフレーズも こんな修正はどうでしょうか?
何を知ってるって言うの
→ 私の何を知ってるの
何が分かるって言うの
→ 一体 私の何が分かるの
言葉を短くして、流れを滑らかにすることには、もう一つの効果があります。それは、メロディがよりメロディアスになる可能性が増すという効果です。無駄な言葉の長さは、どうしてもメロディを疎外してしまいます。
その2:自分の思いのぶちまけ調子になっている。
このことの問題点はいくつかあります。
〇「自分の思いを語る=説明する」ことは、本来にして相手には伝わりにくいものだからです。なぜなら、「あなた=相手」ではないし、あなたの10の言葉のうち、2~3でも伝われば御の字です。それが現実です。
なぜ、人は思いを語れば、そのまま相手に伝わるという錯覚を起こしてしまうのでしょうか?
その答えは実は簡単です。それは、思いの語り手が自分の内面のことであるがゆえに、
手に取るがごとく解っている内容だから、つい相手にもストレートに伝わるものだと思ってしまう。ところが自分と他者は、互いの内面などは見えない存在であり、まったく別の存在である相手には伝わり難いのです。
例えば、片思いなどがほとんど相手に伝わらないのと似ています。
言葉選び
〇歌の中に具体物としての言葉がない、動的な動きのある言葉がない、固有名詞がない、映像表現がない、のようにこれほどないない尽くしであっては、聞く側がこの歌とのつながりを模索しても、取り付く手がかりがないのです。
例えばの話をします。歌い手が「この青すぎる空」と歌ったとします。「空」というものが必ずしも適当な例とは言えませんが、歌の送り手と受け手に共通のイメージが期待できます。それは、「青い空」を経験的にみんなが知っているからです。そこに、歌う貴女と聞き手の誰かのシンクロが生まれます。
ですがら、岡室さんのこの歌の気分が、暗くて、寒くて、寂しくて、というものであれば、例えば「寒風の中を冬木立につかまりながら、のろのろと這うように夜道を歩くあなたの姿」が目に浮かぶようなフレーズで表現した方が、よほど聞き手にイメージが伝わりやすいかも知れません。
そうです、伝えたいイメージを相手に想起させる仕掛け作りのための言葉選びこそが、作詞なのです。
惨めな状況を歌う歌として、私がすぐにイメージできるものに、中島みゆきさんの歌があります。
「道に倒れて 誰かの名を 呼び続けたことがありますか」というフレーズです。
これは、伝わると思います。「道に倒れる」「人の名を呼び続けている」という尋常ではない動的な光景が歌われているからです。もし、そんな光景に道で出くわしたとしたら、僕だってギョっとして足を止め、周りの状況把握や、声をかけるべきかかけざるべきか躊躇するように思います。
ここで重要なことは、この一行のフレーズが街角で起こったドラマ映像として表現されているという点です。聞き手はこのたった一行の映像だけでドラマ全体を「ふられた女の悲惨な失恋物語」として勝手に連想してしまうということです。
それは、頼まなくても自動的に売れていくような効率のいい商品のようなものです。
アーティストとして、歌のどんな将来像を目指すのか
岡室さんは、まだこれから先にたくさんの伸びシロがある、今はデキの悪い駆け出しのシンガー・ソングライターだと思います。大谷翔平は、高校時代に自分の将来の目標をノートにまとめ、そこには「28歳WBCでMVPを取る」と書いてあったそうです。びっくりするその実現力に驚嘆しますが、若い岡室さんも将来的な方向性を見据えて、頑張って欲しいと思います。もちろん、「ぼやき系」であることそれ自体を否定するものではありません。
ユーミンのファーストアルバム「ひこうき雲」は今や有名ですが、其の中のタイトル曲である「ひこうき雲」は何十年後かに宮崎駿氏がジブリのアニメーションの主題歌に使いました。その普遍性がスゴイと思いませんか?
また、こんな例もあります。テレビ朝日の夜10時からのキャスター番組ですが、スタジオセットに満開のサクラを仕立てて花見などの桜情報を伝えていました。そのバックにはずっと「春よ来い」のメロディーが流れていました。
誤解がないように断っておきますが、「春よ来い」の曲の歌詞には「サクラ」という言葉は一度も出てきません。なのに、春の訪れのイメージとしては今や筆頭にこの曲がBGMで使われています。
ある時、ユーミン自身がインタビューに答えて語っていました。
「自分の名前が後世に残る事よりも、自分の歌がスタンダードナンバーとして後世に残る事を目指す」と。これには、深い彼女の戦略としての普遍的な曲作りの姿勢があります。
かつて、「およげたいやき君」という、記録的なセールスをした歌がありますが、そのセールスにもかかわらず、今、現在スタンダードナンバーかと言えば、首を傾げたくなります。そこが、ユーミンとの決定的な違いだと思います。
私は、アートを目指すならばやはり普遍的な創作物を目指して欲しいと思います。例えば、ジャニーズのようなアイドルグループの歌は、わずか数年前のものが、ブック・オフで安値で売られていることなどを見るにつけ、その時だけ大量に消費されただけで、次の物が出たら、トコロテンのように押し出されて廃棄され、価値は続かないのだということが解ります。
一次的に消費されるだけのアートって、つまらなくないですか。ですから、どなた様も志高く普遍性を目指しましょう。そして岡室さん、「ありがとうソング」ばかりが蔓延している昨今だからこそ、アンチな歌を目指すあなたを私はしばらくみようと思います。


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