シンガー・ソングライター、散文的表現の落とし穴

時間的奥行き

あなたがアーティストを目指すならば、今すぐ散文的歌詞から脱却すべきであります。

今、世の中には散文歌詞が溢れかえり、ゴミの山となっています。
なぜそうなってしまったかを考えてみたいというのが今回のテーマです。

散文歌詞の落とし穴

散文は大概の場合、自分の思いの丈の吐露でありますから、自分的にはとてもしっくりと行き過ぎてしまうものです。つまりそれこそが最大の落とし穴の原因であり、自分的にしっくりくるから、それを聴いた他者にも同様に伝わるはずだという錯覚に陥ってしまうのです。

それは本人だけが気づかない落とし穴で、あなたも一度立ち止まって冷静に考えてみる必要がありはしないかと思って欲しいものであります。

散文的な歌詞で他者に聞かせる(聞いてもらう)という行為は、見知らぬ通行人を呼び止めて、自分の思いの丈をぶちまけるようなものではないかと私は考えます。

聞き手は通常、「突然見知らぬ人に呼び止められて、その人の思いの丈を語られても」と困惑するだけでしょう。

つまり、そこで欠落しているのは相手との共通項が予め存在していないという問題です。
あなた(歌の送り手)の思いの丈は、本来あなただけのものであり、相手にとっては預かり知らないものです。

だから伝わらないのです。本来、事は単純です。

まず、「一人称」を止めてみる

こんな時に手っ取り早い手法として、「一人称」を止めてみるというのはいいと思います。
「私」ではなく「彼」「彼女」「あなた」などを主人公にするとかは、冷静な表現に導かれるための手っ取り早い手法です。

実際に、ユーミンの曲では「彼」「彼女」他、人物としての他者の存在が多く登場します。それは、曲のドラマ性によく貢献しています。

他者との共通項を敢えて設定することも大切

例えば、道端であなたが見知らぬ人を呼び止めて、話をするとしたらどういうシチュエーションなら可能かということを考えてみましょう。

私は、愛犬のシーズーを連れて日課の散歩をしますが、時折、「かわいい」という声がかかり子どもたちが寄ってきたりします。そこには、子どもの目に犬の姿が見えていて、飼い主である私との共通項が存在します。だから、コミュニケーションがうまれるのです。

また、昨今の晩秋ともなれば、犬の散歩の折にも街路樹の落ち葉を掃く年配の人と良く出会います。私は「大変ですねぇ」と声をかけたりします。その時には、掃き集められた大量の落ち葉の束がそこにあり、その光景を、見ず知らずのその人と私は共有しているから、コミュニケーションがうまれるのです。

道端の綺麗な草花や、垣根の中の美しい花壇など情景として他者と共有できるものがあれば、それを共通項として、コミュニケーションが成立します。

では、そのようなことを歌の歌詞に取り入れる場合にはどうでしょう。

歌詞としての他者との共通項

例えば、ユーミンは歌の出だしで数行の短い情景描写をしています。それは、彼女の並々ならぬ腐心した情景描写なので、それだけ集めたとしても大いに勉強になります。

それは、大きな町の情景であったり、目の前のささやかな光景であったりと様々です。そこで共通しているのは、映像的でメイクドラマに繋がるものだということです。情景を言葉で描くということは、色々な映像イメージを聞き手と共有するという意味です。

では、一般論として共通項となるものの作り方について考察しましょう。

第一に歌の送り手と聞き手の単純な共通項は、やはり五感で体験できるものとしての共通理解です。「視覚」「聴覚」「触覚」「味覚」「臭覚」に関するものです。

海、山、川、建物、電車、赤ちゃん 等々、言葉にして互いに同じ物(事)、或いは非常に類似したものをイメージできる事柄を情景美として表現に使うこと。それが視覚的な共通項で無限にあります。

鐘の音、川の流れ、滝の音、波打ち際の音、クラクション、電話の鳴る音、テレビ、ラジオの音、風鈴の音、等々無限にある聴覚的な共通項、これらも送り手と聞き手が近いイメージを共有できます。

触覚の手ざわり、味覚の苦み・甘み、臭覚の強烈な臭みなどは、同じように聞き手と共有できるものと考えられます。他には、色に関する表現を多用してもいいですし、季節に関する表現もいいと思います。

「赤いスイートピー」「白い一日」「黄色いサクランボ」「蒼い夏」「黒く塗れ」…昔から歌のタイトルにも色はよく使われてきました。だれしも「赤」と言われてそれ以外の色をイメージすることはありません。

「固有名詞」の効果的な使い方

「固有名詞」は苦も無く自らが多くを語ってくれるのでとても便利です。
例えば、「富士山」と聞いてエベレストをイメージする人はいないでしょう。とても形の整ったシンプルで美しい光景を他者とイメージを共有できます、

ユーミンは憎いほどその手の手法が得意です。「山手のドルフィン」「観音崎の歩道橋」「見浦岬」「ドアのへこんだセリカ」「バルセロナ」「ランドリーゲート」等々、言葉を拾い集めるだけでも勉強になります。

■地名、国名、都市名、人名、商品名、店の名前、ブランド名 等々
「アメリカ」「冬のリヴィエラ」「東京」「大阪」「高知」「長崎」「ビートルズ」「ボブ・マーリィ」「能古島」「京都」「横浜」「シベリア鉄道」「カナリア諸島」「あずさ2号」etc.etc

これら固有名詞には、それぞれにまつわる歴史的な質量のあるイメージがすでにくっついていてくれるので、その効果は絶大です。

例えば、「京都の秋の夕ぐれは コートなしでは寒いくらいで 丘の上の下宿屋はいつも震えていました」とある、「下宿屋」(加川良さん)という歌ですが、これが「京都」でなく、東京だったり神戸だったり、札幌だったり、長崎だったりしたらどうだろうと考えてみました。

すると、この詩には「京都」以外に当てはまるものはないという結論に達しました。そこに京都という街の特異性があり、それにくっついているイメージや歴史的価値観、風情などがまさに「京都」にピッタリで、この歌の情緒とよく似合っているのです。

京都に限らずとも最近は、イケてる旅唄を書ける人が少なくなりました。旅や地名を演歌の出番に任せないで、皆さんにも果敢に挑戦してもらいたいものです。ぼくは、「都万の秋」という旅唄が好きです。因みに「都万」(ツマ)は隠岐の島にある地名(固有名詞)で岡本おさみ氏の手になるものです。

ここまで、書いてきたことはすべて、貴方の作る歌詞が散文的で面白みのない自分の思いの吐露に終始しないための工夫に関することです。「散文的表現のどこが悪い!」とケツ捲くって意固地にならずに冷静に判断していただくことをお願いします。

「散文的」の意味をググってみると、「詩情に乏しいこと」、「平凡で面白みがないこと」という説明になっています。つまり芸術的表現性になっていない状態を指す言葉のようです。
あなたがアーティストを目指すのであれば、その状況は少なくともクリアすべきだと思います。その名の通り「アート」を目指して欲しいのです。

既に沢山のファンがいて、散文的表現の現在状況に満足しているミュージッシャンが多いことは、とても残念なことです。音楽はアートに関するものなのですから、本来その芸術的価値の程度やレベルの差は現に存在しているのです。

ところが、コンクールでもしない限り、競うという機運がなかなか生まれません。「好きなアーティスト=好きな歌=最高」という錯覚の中に特にファンなどはマインドコントロールされているからです。

■テーマ性やメッセージ性を持ち込む

例え、メイクドラマの映像的表現には成り得ていなくても、テーマ性メッセージ性を表現の中心に据えることで救われる場合があります。もちろん、それでありながら映像的であればさらに良いことは言うまでもありません。

テーマ性・メッセージ性と言っても、別に「戦争」とか「平和」のような大仰なものである必要はなくて、以下のようなものでも全然オッケーです。

加川良「流行歌」
「君は君のことが好きでありますように、僕は僕のことが好きでありますように」
西岡恭蔵「グローリー・ハレルヤ」
「あなたがあなたであることを願いながら、私が私であることを願いながら」

どちらも、曲の途中のある部分のフレーズですが、これらのさりげないフレーズが僕には十分にメッセージのように聞こえるんです。

http://www.example.com/foo.html
2018-06-04



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