今回は「ノーサイド」、「冬のリヴィエラ」、「Tomorrow never knows」の3曲を比較しながら作詞論を展開します。

ノーサイド 松任谷由実
彼は目を閉じて 枯れた芝生の臭い
深く吸った
長いリーグ戦しめくくるキックは
ゴールをそれた
肩を落として土をはらった
ゆるやかな冬の日の黄昏に
彼はもう二度とかぐことのない風
深く吸った何をゴールに決めて
何を犠牲にしたの誰も知らず
歓声よりも長く 興奮よりも速く
走ろうとしていたあなたを
少しでもわかりたいから
人々がみんな
立ち去っても私ここにいるわ同じゼッケン誰かがつけて
また次のシーズンをかけてゆく
人々がみんな
立ち去っても私ここにいるわ何をゴールに決めて
何を犠牲にしたの誰も知らず
歓声よりも長く 興奮よりも速く
走ろうとしていたあなたを
少しでもわかりたいから
人々がみんな
立ち去っても私ここにいるわ
■「ノーサイド」歌詞の分析
ご存知ユーミンの得意技、メイクドラマの傑作のひとつ「ノーサイド」です。
これまでのように、次の観点で分析します。
①メイクドラマと情景描写
②メイクドラマと時間的奥行
③メイクドラマと空間的広がり
④その他
①メイクドラマと情景描写
彼は目を閉じて 枯れた芝生の臭い
深く吸った
長いリーグ戦しめくくるキックは
ゴールをそれた
肩を落として土をはらった
ゆるやかな冬の日の黄昏に
彼はもう二度とかぐことのない風
深く吸った
この出だしの8行は、ほぼ映像として厚めに駆使され、上手く確立されている。ユーミンはほぼ出だしには必ずと言っていいほど、情景美のあるフレーズを持ってくるのだが、それも8行というのは異例の長さである。
登場人物としての「彼」がラガーマンとして長い大学時代?(これは筆者の想像を含む)の最後のキックをする場面である。そのキックはゴールを外れ、同時にそれは彼のラガー生活の終りを意味している。
そのことを、直接ではなく「枯れた芝生の臭い」、「リーグ戦」、「肩をおとして」(動詞)、「土をはらった」(動詞)「ゆるやかな冬の日の黄昏」(情景)、「二度と嗅ぐことのない風」(情景)の言葉を選択して、映像的で抒情的な表現を確立している。
この8行に対して、「何をゴールに決めて~」からの8行は、ラガーマンとしての彼に対する「私」の思いが綴られている。このドラマには「彼」と「私」が主人公として登場する。
②メイクドラマと時間的奥行
言うまでもないことですが、ドラマに時間的奥行を持ち込むとドラマ全体が巻き込む内容の質量が増えて、作品が深くなります。
「長いリーグ戦をしめくくるキック」の言葉は、過去に向かって時間的な奥行きを添えています。また「同じゼッケン誰かがつけて また次のシーズンをかけてゆく」は明日のすぐにやってくるであろう近未来に向けて時間の奥行きを演出しています。さらには「人々がみんな立ち去っても私ここにいるわ」という表現にも、一定の時間の経過が感じられます。
③メイクドラマと空間的広がり
いうまでもないことですが、映像的な表現には空間的な表現を持ち込むべきです。なぜなら、狭い部屋の中だけでドラマは完結しないからです。
ここでも、出だしの8行は、抒情的であると同時に、空間的なものを感じます。
彼は目を閉じて 枯れた芝生の臭い
深く吸った
(ボールをけるために、駆け出しのポジションをとり、ルーティンとしての深呼吸する姿)
長いリーグ戦しめくくるキックは
ゴールをそれた
(蹴るボールの足元から、飛んで行くボールを目で追う遠景まで)
肩を落として土をはらった
(キックを失敗した彼を大きく描く近景)
ゆるやかな冬の日の黄昏に
(背景としての広大な遠景)
彼はもう二度とかぐことのない風
深く吸った
(再度、彼をクローズアップする近景)
これらは、先にメイクドラマとして言及・説明しましたが、同時に全てが空間的な広がりのある情景の表現でもあります。それは、空間的な動きとドラマメイクを一体的に同時表現しているという高度な技なのでしょうか。芸術性の高さを感じます。
その他
このように、映像的表現に物語を語らせてしまえば、長々とした説明的なくだりは必要がなくなります。そうするとメロディと言葉(フレーズ)がとても自然にマッチする感じです。

冬のリヴィエラ
作詞:松本隆 作曲:大滝詠一
この歌詞をここに紹介できないのが残念です。
皆さん、それぞれで検索してみてください。
■「冬のリヴィエラ」歌詞の分析
①「冬のリヴィエラ」メイクドラマと情景描写
彼女と別れて、港から旅立って行こうとしている男と、その彼女の悲しみを適当に慰めてくれと、後を託される友人。彼女は察しのいい賢い女らしい。
こんな、ストーリーが見えてくるだけで、この歌はもうすでにメイクドラマが成功している。
「リヴィエラ」とは、海岸と言う意味のイタリア語らしいが、同時にイタリアの北西部、地中海のジェノヴァ湾に面する海岸一帯のリゾート地を指す固有名詞でもある。
松本隆氏は、この詩を書くにあたってアルバム「ロングバケーション」の「カナリア諸島にて」のイメージがあったらしいから、やはりイタリアのリゾート地海岸のことをイメージして書かれたものでしょう。
遠い外国のその地に向かって旅立つ男、残される彼女との別れを「男って奴はどうしようもないものだね」という大人の話として仕上がっています。
②「冬のリヴィエラ」時間的奥行
全体的な詩調からして、もう若くもない男女の関係が、腰がなかなか落ち着かないダメ男の我がままで切れてゆくというそんな話には、どことなく時間的なものが感じられないこともありませんが、そのような明確になる言葉選びは見当たりません。
③「冬のリヴィエラ」空間的広がり
アメリカの貨物船が
桟橋で待ってるよ
「アメリカ」「貨物船」「桟橋」と言えば、それはワールドワイドな空間的な広がりがイメージできます。また「冬のリヴィエラ」のタイトルそのものにも、既に異国のエキゾチックさが強く漂っています。
ミュージカル「マイ・フェアレディー」でも、「地中海地域は冬に雨が多い」という話題が出てきますし、映画「雨の訪問者」のオープニングシーンでは、雨のそぼ降る中、バスが止まり、降りてくる男がチャールズ・ブロンソンと言うくだりも地中海沿岸の小さな街(ここはイタリアではなくフランスの田舎町)で、それも冬のことです。
ですから、私は「冬のリヴィエラ」と聞くと、反射的に雨のしとしとと降る地中海沿岸の街で、夏の光あふれる地中海の、例えば映画「太陽がいっぱい」のようなイメージとは真逆のものを連想してしまいます。
そのような情景を包含した異国的な広がりのある言葉選びがそこにあるように思います。
その他
この曲、松本隆氏と大滝詠一氏の作詞・作曲コンビによるものです。
二人はあの伝説のグループ「はっぴいえんど」時代からのつながりがあり、ここにもその片鱗があります。

ミスターチルドレン 「Tomorrow never knows」について考える
ここに歌詞を掲載できないことが残念です。
みなさん、それぞれで検索してみてください。
私のように70年代の歌に育てられた世代の人間にとっては、1992年デビューのミスターチルドレンとは、かなり遠い世代の人たちではあります。桜井和寿氏は確かに人当たりのいいジェントルマンのように見えますし、音楽愛に溢れた人のように見えます。
ここに取り上げた歌は、おそらく、ミスチルファンにとっては「神」のような歌ではないかとさえ想像します。そこで、この歌についても、先に挙げた「冬のリヴィエラ」「ノーサイド」と比較しながら、音楽芸術レベルを論じていきたいと思います。
まず全体的な印象としては、十代から~二十代初めのまだまだ自分が何者かも分からない若造の、只々エネルギーばかりが無駄に空回りしているようなカオス状態を連想しました。
そうです、それは俗に青春時代というものです。またそれは思春期後半の思いの集積であり、時に過度にナイーブすぎたり、またその反対に自滅的であったり、破壊的な要素であったりとヒリつく時期であります。
ですが、その時期を通り過ぎた者にとっては、徐々に忘れられてしまいがちな運命でしょうか。そんな儚い思いをよく再現して見せたと言う意味では、特定の世代や類似体験の所有者には神のようにとてもよく響く内容だと思います。私のようなシニアにもかつての遠い記憶に絡む残骸のようなものを思い出しました。
でもそれは、私が努力して青春時代の記憶を手繰り寄せたからであり、この歌を聴くことで自然に蘇ったと言うわけではありません。それは、なぜなのでしょうか? それをこれから分析していきます。
まず、はじめに私は、兼ねてからの法則である
① メイクドラマの存在
② 時間的奥行の表現
③ 空間的広がりの表現
④ 究極の言葉選び
などの観点から、分析解明しようと試みましたが、早々に諦めました。
それは、以下の理由によるものです。
・この歌詞には、ドラマ的な表現を試みた形跡がほとんどないということ。
なので、ほとんど映像が目に浮かばないような作りになっている。わずかに「街並みを眺めていた」とか「すれ違う少年」など語り手(おそらく「私」)の目の動きを感じさせる動的な表現もありますが、それは意図的にドラマとしての映像を意識した表現ではなく偶然であり、あまり効率的な映像表現には成り得ていません。
そのために、言葉ではなく映像に多くを語らせることが出来ずに、無駄にたくさんの言葉を費やして自分の思いを連綿と吐露するような散文的スタイルの歌詞になってしまっています。それは、決して効率的な表現方法とは言えません。それでは、聞き手側に映像は見えてきません。
・ほとんどのフレーズは具体的というよりも、抽象化された言葉で綴られ、時間的な奥行きを感じるものは見当たりませんでした。例えばユーミンの「ノーサイド」のように「長いリーグ戦しめくくるキックは」「同じゼッケン誰かがつけて また次のシーズンをかけてゆく」のように、歌の全体が物語として膨らむような手法が採用されているのとは対照的です。
・「空間的な広がり」についてはどうでしょう。
「孤独なレース」、「この長い旅」、「心のまま僕はゆくのさ」など手掛かりとなりそうな言葉は散見されますが、実際にはこの主人公は具体的には動きそうな気配がありません。
フレーズがありきたりすぎます。「孤独なレース」=「孤独」という言葉をもっと具体的にできないものでしょうか。「長い旅」=もっと別な表現の可能性はないものでしょうか? しょっぱい旅? 帰る場所もない旅? 行方知れずの旅? 線路伝いの歩き旅? etc…
「長い旅」の割には、アメリカでもなければ、インドでもなし。また、海でもなければ山でもない、空も見えなければ川に飛び込むと言うのでもない。バイクで国道をぶっ飛ばすのでもなければ、タイマン張って喧嘩するのでもない。具体性がない。
動きという物がなくあまりに静的過ぎて、それでは空間的に広がれないので、歌のイメージが聞き手に定着しないのではないでしょうか。とにかく、言葉が無駄に多すぎます。むしろ、黄金のパワーフレーズを一つ二つ作って、効率よくリフレインする方が聞き手によく伝わり効果的です。
アメリカの貨物船が
桟橋で待ってるよ
先の「冬のリヴィエラ」この短いフレーズ、とても効果的かつ効率的な言葉選びです。「アメリカ」「貨物船」と歌ったそれだけですが、具体的に人は遠い異国を連想したり、貨物船が海を行く動的な姿を連想したりします。動きは映像的です。
それは、この二語が、例えば俳句の季語のように、既に多くのイメージをパッケージしてくれているからです。このような説明でお分かりいただけるでしょうか?
つまり、桜井さんの散文的な映像を伴わない言葉だけでは訴求力が低下し、費やした言葉のおよそ2~3割しかイメージが伝わらないのに対して、映像表現を心掛けるだけで、フレーズが短く整うだけでなく、訴求力が何割も増すものだということに気づくべきだと思うのです。
ですから、例えばの話ですがこの詩の場合には、思春期のヒリヒリ感を伝えたいならば、それに関する映像表現を打ち込むといいでしょう。例えば、喧嘩した時に飛び散った血の色とか、切れた唇に感じる血の苦い味などを表現したとすれば、聞き手には自動的にそれが青春時代の苦さとして伝わるはずです。
「青春の苦さ」なんて言葉がそこにはなくても、色や味の五感的表現から、勝手に映像が立ち上がってくるのです。桜井さんには、是非そのような必殺の表現を模索して欲しいものです。また、「アメリカ」「リヴィエラ」「貨物船」のようなパワーワードも探して欲しいと思います。例えば職業柄「ギターケース」なんて言葉はいかがでしょうか。
「ギターケースに小銭がチャリンと…」なんてのはどうでしょう。
桜井さんのように第一線で活動されているアーティストさんには、是非、面白みのない「散文的」表現がら「詩的」(映像的)表現へと脱皮を図って頂き、さらなる飛躍を目指して頂きたいと心より期待しております。


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